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すべてが遠くなってゆく。すべての出来事が記憶の彼方に消えてゆく。窓越しに滲む夜の明かりがとてつもない速さで次から次へと目前に迫り、そしてそれらは後ろの彼方に流れていった。
身を隠さねばならなかった。俺は警官に顔を見られている。金山と松山が言ったとおりだった。警官が来る前に俺は逃げるべきだった。ブライアンが言ったとおりだった。警官を殺って口を封じるべきだった。俺はすべての選択を誤った。俺は夜が明けぬうちに全国指名手配される。かつて俺は田乃木殺しの嫌疑をかけられた際に指紋を採られている。にもかかわらず俺は、ブライアン殺しの凶器である44マグナムM629をホテルに置き去りにしてきた。拳銃には俺の指紋が残っている。俺は若い交番巡査に顔を見られた。俺は警官に顔を見られたのだ。俺は暴力団幹部だ。俺の正体はすぐに割れる。俺はブライアン殺しの犯人として全国指名手配される。逆にこれだけの証拠が揃っていながらもしも俺が指名手配されなかったら、警察はひとり残らず頭がどうかしている。
――生きたまま恐怖と絶望を――俺はブライアンの術中にまんまとはまったのだ。
「高無しゃん。僕の勝ちでしゅよう」
聞こえるはずのないブライアンの腹話術の声。止まらない。幻聴が止まらない。
俺はアクセルを踏み続ける。行き先の当てなど、どこにもなかった。それでも県外に向けてひたすら走らずにはいられなかった。
バックミラーを覗く。尾行されている。黒塗りのセダンが真後ろをつけている。そのさらに後ろ。もう一台いる。白い車体色のセダン。アクセルを踏み込んで加速。黒と白。二台のセダン――離れない。
警察か。それにしては動きが早すぎる。
前方、交差点。信号が黄になった。
アクセルを緩めず交差点に突入した。その瞬間、右折待ちの対向車がふいに発進した。
――ちょっと待て!
――いや、待つな! 行くんなら行け!
そのまま猛加速して強引に右折を終えれば良いものを、何を思ったか対向車は交差点の真ん中で唐突に停止した。そのまま対向車は俺の進路をふさぎながらびくとも動かない。
「馬鹿野郎!」
対向車に叫びながらブレーキを全力で蹴飛ばした。ハンドルを左に切る。間に合わない。そもそもフィアット500にはアンチロック・ブレーキ・システムのような便利な安全機構など組み込まれてさえもいない。
接触。車体の軽いフィアット500は左に勢いよく弾き飛ばされ、ガードレールに噛みついて火花を散らした。
ただひたすら両手でハンドルにしがみついて身構えるほか、俺にはなす術がなかった。フィアット500は独楽のようにスピンを繰り返し、やがて立ち往生した。エンジンは止まっている。俺はなにも考えず、ひたすらイグニッションを回した。無情にもエンジンは掛からない。
バックミラーを覗いた。交差点の真ん中に、フロント部分が潰れた対向車が鎮座していた。
尾行車がフィアットの前方にゆっくりと回り込んだ。尾行車は二台ではなかった。三台だ。メルセデス・ベンツSクラス。BMW6。アウディS8。すべて銅謙組の車両だった。三台の高級外車はフィアットの周囲を完全に塞ぐ形で停止した。
甘かった。俺は判断を誤った。銅田謙吾が金山と新川と真山の三人だけを従えてインペリアルホテルに出向くはずがない。銅田謙吾はホテルの駐車場に若い衆を護衛として何人も待機させていたに違いないのだ。
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