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「ああ、そうそう。ほとぼりが冷めるまで事務所には顔を出すなよ」
松山は薄っぺらなメモ用紙を一枚差し出して寄越した。電話番号が書いてあった。
「用があるときはこの番号に電話しろ。公衆電話の番号だ。00分きっかり一時間おきに誰かを公衆電話に立たせておく。合言葉は、まず電話を掛ける側がコニチワと言う。こんにちはじゃねえぞ。外人ぽくコニチワだからな。間違えんなよ。それに対して受ける側が仁義と言ったら掛ける側はそれが大事と言う。分かるか」
「分かります」
「電話した体で今やってみろ。俺が受ける側。おまえは掛ける側」
「はい。こんにちは」
俺は電話するふりをしてみた。
「駄目だ」
松山はやれやれといった感じで顔を左右に振った。「外人ぽくコニチワだ。俺の話をきちんと聞いてたか?」
「すいません」
「やり直しだ」
「コニチワ!」俺は声を裏返した。
「よし」
松山は目を輝かせながら頷き、「仁義」と良く通る声を張り上げた。
俺は負けじと早口で「それが大事」と言うと、松山は途端につまらなそうな顔になって唇をへの字に曲げた。
「よし」
松山は煙草をクリスタルの灰皿に揉み消した。
「どうやら完璧のようだな」
「はい」
俺は低い声で返事しながら頷いた。
「若頭」
「なんだ」
「お訊きしたいことがあるんですが」
「なんだ。言ってみろ」
「俺の身代わりって、誰なんですか?」
「坂崎リョウヘイだ」
即答だった。
「ああ、坂崎ですか」
納得だ。坂崎リョウヘイ。十八歳。目鼻立ちのスッキリしたチンピラ。どんな女でもイチコロなどとうそぶく鼻持ちならない野郎。
坂崎リョウヘイは親分の四女――末の娘。十六歳――に手を出した。相思相愛。至極当たり前だが即刻バレた。親分は四女をまるで自らの分身のように溺愛していた。もっとも、親分にとっては血を分けた娘だから分身といえばそれは確かに違いないのだが……。
親分は四女を俺たちのようなヤクザ者のいない世界に住まわせたかったのだ。そんな親分の思いを坂崎リョウヘイは自制のまるできかない下半身で汚した。坂崎リョウヘイは本来なら殺されても文句の言えないところを許され、代わりに身代わり出頭を承知させられたのだ。納得だ。
「拳銃の外側を綺麗に拭き取った後、改めて坂崎リョウヘイの指紋をつけ直さなきゃならねえ。だから、拳銃は絶対に失くすんじゃねえぞ」
「はい」
「よし。行け。今日も含めて五日間あるからな。女でも抱いて、飲んで騒いで景気良く過ごせ。そして、やるべきことを間違いなくやれ」
松山は懐からしわくちゃになった四つ折りの紙幣を無造作に取り出した。それを俺の上着のポケットにねじ込んだ。ポケットの膨らみ具合の感触からすると、十枚以上はありそうだ。
「飲み代だ。組長からもらったカネは遣うんじゃねえぞ。親分は二枚舌だから気をつけろ。いや、舌が三枚も四枚もありそうだから妖怪だな、あれは」
「妖怪ですか」
笑う。しかし松山は笑っていない。俺は真顔を取り戻した。それから俺は預かりものの大切な拳銃を懐に仕舞った。
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