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上着のポケットからしわくちゃの紙幣がはみ出している。四つ折りになったそれを引っ張り出してみた。一万円札が二十枚。いや、二十一枚だ。松山の数え間違いだろうか。そうではなかろう。二十万円くれるつもりがうっかり一万円余計にくれた――なんてことはあり得ない。松山はそんな間の抜けた男ではない。二十万円は飲み代。一万円はタクシー代。きっとそうだ。松山の気遣いに目頭が熱くなる。視界がぼやけた。俺はうつむき加減になりながら、いつかは松山のような大物になりたいと夢想して歩道の端っこを歩いた。
飲みには行かないつもりだった。だからといって行きたいところもない。この期に及んで行くようなところもない。都会から遥か遠く離れた東北の古い街だ。人口二十五万人。太平洋沿いの工業地帯と大小様々な飲み屋がひしめく歓楽街の他には見るべき物は何もない。それに、この街で俺たち銅謙組はあまりデカイ顔が出来ない。この街は半グレの巣窟となりつつあるからだ。俺たち銅謙組は新興勢力の半グレどもが食い散らかしたおこぼれに集るハイエナに過ぎない。
半グレはヤクザなど歯牙にもかけない。街には半グレが溢れ返っている。半グレは芸能、金融、飲食、不動産、性風俗、違法薬物、詐欺、偽造、密輸入、密入国斡旋などあらゆる分野に進出して我々ヤクザの生活基盤を脅かしている。それに半グレは法制上は暴力団ではないから暴対法の制限を一切受けない。まさにやりたい放題。
半グレを黙らすには、半グレのケツを持って潤う銀河組に打撃を与えて銅謙組の怖さと本気を見せつけてやらねばならない。だからこそ我らが親分は銀河組組長の春川民造をマトにかけ、一発逆転の勝負に出るつもりなのだろう。しかしそれにしても銀河組の春川親分を殺るなんて馬鹿げてる。半グレを黙らせたいなら半グレ集団のトップを直接狙うべきだ。拐って真夜中の埠頭にでも連れ出して縄で縛り上げ、「銀河組と一緒に死ぬか。それとも銅謙組に鞍替えして生き延びるか」とでも脅してやればいい。上手く行けば誰も死なずに済む。俺ならそうする。それなのに我らが親分様は、わざわざ銀河組と揉めて棘の道を歩もうとしているのだ。馬鹿げているとしか言いようがない。
あるいは半グレ集団を傘下に収めるのが目的ではなく、何か他に理由があるのだろうか。
俺は天啓を受けたように、ある重大な事実を思い出した。
「そうか!」
思わず独り言。誰かが見たらおかしな野郎と思うに違いない。幸いなことに、誰にも見られていない。
銅謙組組長銅田謙吾と銀河組組長春川民造は同い年。ふたりは義務教育の九年間を同じ校舎で共に学んだ学友同士だった。
昨年――小学校の同窓会。銅田謙吾は俺たち子分を大勢引き連れて会場のホテルに参上した。正気とも思えないが、俺たち手下は親分から命令されたらそれが黒だと分かっていても白だと言わねばならない。銀河組組長の春川民造も子分たちを大勢引き連れて会場に現れた。俺たち銅謙組と銀河組は同窓会が終わるまでの二時間あまりをロビーで睨み合って過ごした。
銅田謙吾と春川民造は同窓会の間、左と右に離れて座り、互いに一言も口をきかなかったという。一介の組員に過ぎない俺が知っているのはここまでだ。
過去。ふたりの間にいったい何があったのか、それはもはや銅田謙吾と春川民造というふたりの当事者同士しか知り得ない。そして俺は探偵ではないし刑事でもない。謎解きには興味もない。それにふたりの親分衆の間に何があったのか――(どうせ如何にも些細で幼稚でくだらない経緯に決まっている)――その真実を知ってしまえば引き金を引く決意と気力が鈍ってしまいかねない。だから鉄砲玉の俺は余計なことは何も知らないほうがいい。
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