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Ⅱ 聖典
自慢ではないが真面目な性格であった私は、厳しい会則に縛られる禁欲的な修道生活にもすぐになれた。
神への祈りと瞑想に勤しむ一方、そのアールフォート修道院で神学と哲学を修めた私は、数年後には司祭に叙され、近年、現領主のザックシェン公フレドリッチ三世が設立したウィッテンバーグ大学で講義を受け持つまでになった。
だが、そのように聖職者として順風満帆な道を歩んでいるように外目には見えても、私の心の内はそれに相反して、むしろ苦悩と疑問に絶えず苛まれていた……。
「神よ! これ以上、私はどうすればいいというのです! どうすれば、イェホシア・ガリールのように真に義の人となれるのですか!」
他に人影も見えぬ深夜の礼拝堂で、薔薇窓から差し込む蒼白い月明かりに照らされる巨大な〝神の眼差し〟のオブジェの前に跪き、私は罪の戒告をするかの如く声を張り上げて神に懇願する。
私が修道士となったのは、神の御心に沿って義人としての生を送りたかったからである。
しかし、どんなに神を讃える典礼を熱心に執り行なおうとも、どんなに厳しい会則を守って禁欲的な暮らしを送ろうとも、私は、神の御心にかなった正義の者であるという自信をどうしても得ることができなかった。
その苦悩を解決する答えを、私は神学の中に求めたが、先人達の模範とされる解釈も私を救ってくれることはなかった。
そこで、原点に立ち返ってみようと、プロフェシア教の根本経典たる『聖典』を改めて読んでみることにした。
『聖典』は、〝はじまりの預言者〟イェホシア・ガリールの高弟〝十二使者〟の一人、イヨハンが記したイェホシアの生涯――「イェホシア記」と、もともとはダーマ人だったイェホシアも奉じ、後にその誤った教えを打破する契機となったダーマ教(戒律教)の神と交わした古い「契約」、それにこの世界の成立ちを書いた「創世の書」からなる。
無論、私とて腐っても修道士、その内容はよく存じているつもりでいたが、じっくり読み込んでみるのはこれが初めてだった。
というのも、『聖典』は古代イスカンドリア帝国が世界に君臨していた時代に記されたものであり、当時の公用語である古代イスカンドリア語で書かれているからだ。今もそれに近い言葉を使うウェトルスリア地方の者ならばまだしも、我らのようにガルマーナ地方生まれの人間にとっては、読むだけでもひどく難解だったのである。
きっと、この根本たる書の中に答えがあるに違いない……そう期待をし、辞書を片手に丹念に『聖典』を読み進める私であったが、予想に反してその行為は、ますます私を悩み苦めることとなった。
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