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なぜならば、『聖典』と『聖釈』の間に多くの矛盾があることに気づいたのだ。
プロフェシア教には、教義の根幹とするものが『聖典』の他にもう一つある……それが『聖釈』だ。
『聖釈』は、イェホシア・ガリール以降、その正統な後継者に指名された聖ケファロに始まる歴代〝預言皇〟達が神より預かったとされる御言葉「預言皇言行録」や、イェホシアの直弟子である十二使者他、古の教父達による「書簡」や彼らの言動をまとめた「使者行伝」からなり、一言で表すならば、イェホシアの教えを続く弟子達が自らの言葉で説いた注釈書である。
この『聖釈』も、『聖典』同様に人々を教え導くための典拠とされ、説教などでもよく用いるものなのであるが、それが、どうにも『聖典』に記されているイェホシアの教えと異なるのだ。
いや、私も最初は自分が『聖典』を読み間違えているものだと考えた。だが、どんなに丁寧に読み返してみても、やはり表現の違いなどとは看過できない、明らかな差異が多々見受けられるのである。
例えば、プロフェシア教会では当然の如く、処刑されたイェホシアが十二使者の一人、一番弟子の聖ケファロに教団の後を託したとされているが、『聖典』には高弟達全員に「彼の御言葉を広く人々に伝える」ことを委ねたと書かれているだけで、ケファロを特別視するような記載はまるで見当たらないのだ。仮にあえて後継者ということなら、ケファロよりもむしろ、イェホシアの実弟ジョコッホが十二使者により代理預言者に選出されている。
いや、そんなことよりももっと驚くべきは、預言に対しての考え方の違いだ。
現在のプロフェシア教において、この世で「神の御言葉を預かれる」のは預言皇ただ一人とされているのだが、そのようなことは『聖典』に一言も書かれていない。
それどころかイェホシアは、「常に神を心に思っていれば、誰しもが神の御言葉を預かることができる…」と人々に説いているのである。
そして、神の御言葉を預かる――即ち、神の御心を知れば、その御心のままに人は罪なく生きることができるのだと……。
「常に神を心に思う……」
独り、狭くて質素な自室で『聖典』を読み耽り、そこにその事実を運命的にも見つけた時、私は再び雷を食らったかのような激しい衝撃を覚え、思わずイェホシアのその言葉を口にしていた。
そうだったのだ……常に神を心に思っていれば、それだけで人は真に義の者であることができる。
その者が〝義〟であるか否かは、その者の行いによってではなく、その者がどれほど神を思っているかによって決まるのである!
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