Ⅲ 疑念

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 それに、そうした高位聖職者の腐敗も噴飯ものであるが、その〝贖罪符〟という制度自体、私のたどり着いたイェホシアの教えとは相容れないものだった。  人は、神を想い、その御心に沿って生きることにおいてのみ、真に義となることができる……その行いによって善悪が決まるわけでもないし、ましてやそのような紙ペラ一枚で罪が贖われるわけがないのだ!  無論、そんな贖罪符のことは『聖典』に一言も書かれていないし、後年、新しい時代になってから『聖釈』に加えられたものである。  かつての私であったならば、この贖罪符の制度にもさして疑問を抱くことはなかったであろう。  だが、イェホシア同様、真の預言を得た今の私からすれば、この神を愚弄するような行いはけして見過ごすことができない。  義憤に駆られ、これを看過することはむしろ罪であると考えた私は、即刻、この背信的行為を禁止するよう、贖罪符及び罪の赦しに対する108ヶ条の問題点をしたため、古都イスカンドリーアにある預言皇庁へ直訴の手紙を出した。
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