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気儘な日々を過ごしていた。
自分がいつどうやって死んだのか、もう、そんな遥か昔のことは憶えていない。それどころか、生前にどんな人間だったか、どんな人生だったかも、自分の名前すら憶えていない。それでも、その時その時を、私は存在し続けていた。
「生きている」とは言えない。生者と比べ、死者のできることと言ったら、些細な、そして僅かなことだけだった。物音を立てたり、物を小突いて床に落としたり、電化製品を故障させたり。そんな他愛のない悪戯をして人間を怖がらせるくらいしか、実在の世界に干渉できなかった。
それでも、季節の風に吹かれ、人間社会の発する匂いを感じ、姿を見られないのをいいことにこっそり盗み見盗み聞きをし、たまには同類と交流し。同じことの繰り返し、発展のない毎日ではあったが、それでも死者として、自分なりに私は存在していた。
あの男に初めて会った夜、彼は窓際に佇む私にすぐに気が付いた。
私は丸一ヶ月間、そのアパートの一室を離れて旅に出ていた。そうして一ヶ月後、ねぐらに戻ってみれば、同居人が入れ替わっていた。
前の住人は、霊感の全く無い若い女だった。私が手を鳴らし注意を引こうとしても、それを隣室からの騒音として聞き、私がテーブルからダイレクトメールを落としても、それを傾いた床のせいだと思い込んでいた。
彼女と私は二年ほど居を共にしていたが、私が旅に出る二週間前、その女に新しい恋人ができた。今となっては知りようもないが、その男と住むために、一人暮らしの部屋を後にしたのかもしれない。
彼女の次にこの北向きの湿っぽいアパートの部屋を借りたのは、二十代後半の会社員の男だった。
旅から戻り、玄関のドアをすり抜けた時にはもう、住人が変わっていることに私は気が付いた。ドアの前に転がっていたパンプスが一つ残らず消え失せた他、ゴミ屋敷一歩手前の部屋だったのが殺風景と思えるほど物が少なくなっていたからだ。私は、さして驚かなかった。この部屋に私が居着いてから、既に両手では足りない回数、住人が入れ替わっていた。
旅の疲れが残っていた私は、窓の外の見慣れた風景をしみじみと眺めた。そうして、我が家に戻ってきたのだと人心地ついた。そのまましばらく、街の夜景を観察していると、玄関ドアが開錠される音が部屋に響いた。
暗い部屋に入ってきたのは人物の性別は、家具や雑貨の趣味から予想していた通り、男だった。男は部屋に顔を見せた途端、私と目が合った。
そうして、彼はすぐに視線を逸らした。私からしたら、その誤魔化しは何の意味もなかった。いや、かえって意味を持った。ああ、こいつは見える方の人間だと、分ってしまった。しかも、死人の気配や嫌な空気だとかを曖昧に感じるタイプではなく、はっきり見えてしまう特別霊感の強いタイプだと、察してしまった。
新しい住人には、私の姿が見えている。そのことは、その後の私の毎日を楽しくさせた。生きている住人がどんな人間であろうと、私はこの部屋から出て行く気はない。しかし、やはり自分の存在を認める人物がすぐ近くに存在するということは、私の日々の生活に適度な張りを与えてくれた。
私は、男に色々なことを仕掛けた。気紛れに照明を点滅させたり、居眠りする男の頬を撫で上げたり、テレビやパソコンの画面に人影を映したり、スピーカーに奇声を上げさせたり。男はその一つ一つに反応し、反応しながらも平静を装い、その様子は私を愉快な気分にさせた。
そんなことを飽きもせずに、日々続けた。だが、いつの頃からか、男はふさぎ込むことが多くなっていった。その原因は、私の悪戯ではなかった。彼が彼の友人と話すのを聞いて、私は彼が仕事を解雇されかかっているらしいことを知った。
間もなく、彼は無職となった。彼は再就職の口を探したが、そもそもが不景気の煽りを受けての解雇だった為、新しい仕事も見つからず、三ヶ月も無職でいる間に、結婚を前提に付き合っていた女性にも振られてしまった。
ある日、彼は突然、なにもかもの活動をやめた。それまで職を探し、恋人の心をつなぎとめようと努力していた彼は、ぱたりと全てを放棄した。彼は、一日中酒を飲み、少ない貯金を食い潰し、毎日を無為に過ごすようになった。
そんな日々が三ヶ月も続いた、ある夕方、髪も髭も伸び放題になった彼は、初めて彼の方から私に話し掛けてきた。
「最近、何もちょっかいかけてこないな」
彼の目の色は私の同類の誰のものより、どんよりとしていた。
「余計なことをして死なれては、寝覚めが悪いからね」
私が言うと、男は「寝覚めって、幽霊に寝たり起きたりなんて、あんのかよ」と、大袈裟に笑った。彼は、最近そういう風に一人で笑うことが多くなっていた。
「家賃が払えないならこの部屋から出てけって、言われてんだ。他の居場所なんてないし、死んで、あんたみたいに、ここに居座り続けてやろうかな」
「それは勘弁してくれ。この部屋の死人の主は私なんだから」
生きている男と普通に会話できることは、あまり良いことでは無かった。死人と恐れずに話せるなんて、彼がこちら側に来たがっている証拠だった。私はどうにか、男の目を少しでも明るい方に向けさせたかった。
「君は、自分の特別な才能に気が付いていないんじゃないか?」
「は?なんだよ。そんなの、ねぇよ。だからこんなん…」
「あるじゃないか。だって、話しているだろう、私と。話せているんだよ、私と」
男は、穴の開くほど私を見た。生きている人間に、この時ほど正視されたことは無かった。
次の日から、彼は酒を断った。そして、オカルト系の情報をネットで漁り、図書館のその手の本を借りまくり、過去の霊媒師、霊能者、超能力者、予言者、預言者のやり口を学んでいった。
彼は所有していた僅かな家具や服、本を売り払うと、その金で臙脂色の厚手のカーテン生地を購入し、薄暗い部屋に張りめぐらせた。そうして、以前の住人が置いていったハイスツールに、古道具屋で買ってきた水晶玉を模した安物のガラス玉を据えた。
男はSNSを活用し、霊媒師としての自分を宣伝した。そうして、私は男の茶番に協力した。
最初、男の元を訪れる客は少なかった。私は客が来るたび、彼彼女の首筋に息を吹きかけたり背中を撫でたり、降霊室の照明をショートさせてやったりした。
半信半疑でやって来た大抵の客は怖がり、男の茶番に信ぴょう性を感じつつ、怪しげな部屋を後にした。客の中には手品の種明かしをしてやろうと意気込む冷やかしもいて、だが、そういった類の来訪者も、結局、手品の仕掛けは一つも見破れなかった。それは、当然だった。茶番ではあるが、本物の幽霊が関わっていたのだがら。
私は降霊室で客をからかうことを、それなりに楽しんだ。だが、次第に男から、それ以上の仕事を求められるようになっていった。私は、予約を入れた客の身辺に差し向けられ、生きた人間では知ることのできない情報を集めさせられた。その情報を私が男に耳打ちしてやると、男の茶番は更に完成度を高めた。
そのうち、本気の客も冷やかしの客も、他の客を呼ぶようになった。客の中には、何度も男を訪れ常連になる者も少なくなかった。そして、男の能力に心酔し、弟子入りを志願する者まで現われはじめた。
最初は弟子入りを固く断っていた男だったが、ある日、私に言った。
「もう、客を一人一人相手にするような、非効率な働き方はやめるよ。霊能者を養成するセミナーを開くんだ。それで金を稼ぐ。育った弟子が自分の弟子をとったら、そこから上納金をせしめる。効率的だろう?」
男はもう、飲んだくれていた頃とは別人だった。どんよりとしていた目つきはぎらつき、中途半端に伸び放題だった髪と髭は、今や意図的に更に長く伸ばしていた。
「霊能者を養成するって?君のは生まれつきの才能だろ。他人に教えて身につくものか」
「そんなこと、わかってるさ。でも、本当かどうかなんてどうでもいい。俺は、皆を幸せにしてやるんだ。幸せって、金を持つことだよ。金を持たせてやりゃ、死者なんかと話せなくても一向に問題無いのさ」
それからは、私の仕事は様変わりした。
それまでの私の仕事は、降霊室でほんの少し客をからかってやること。それから、客の歴史と生活をほんの少し探り、男に教えてやることだった。
今の私の仕事は、男が設立したカルト教団を批判する者、そして教団を脱会しようとする信者の身辺を騒がし、祟りと思い込ませ、追い詰めること。そして、彼らが誰にも話さずネット上にも上げていない重要な個人情報を、恐怖心を煽る為の脅しのネタとして、男に提供すること。
やっていること自体は、以前とさして変わっていないのに、目的が全く変わってしまった。前は、すべての行動は、客たちの不安をなだめることを目的としていた。たしかに、男を稼がせてやるという面はあったが、それでも、彼を訪れた人々は皆、来たときよりも明るい表情で降霊室を後にした。今は、違う。男に一度でも近付いた者は、彼の元に残っても離れても、もう加害者か被害者のどちらにしかなれない。
私は何度も、男にこの業の深い商売から手を引くように勧めた。いつかお前の方こそ祟られるぞと、脅かしもした。しかし、長く私という幽霊といた男は、もう祟りなど全く怖がらなくなっていた。そう、幽霊ごとき、生者が恐れるものではない。私たちは音を鳴らしたり、物を落としたり、そんなことしかできない儚い存在なのだ。
「お前は俺に責任がある。俺をそそのかし、この商売に引きずり込んだのはお前だろう」
男には、死者に対して特別な力があった。そうして、その力の使い方を彼はすっかり心得ていた。男に言葉の枷をかけられた私は、彼に従うしかなかった。
昔馴染みの同類と再会したのは、街に初雪が積もった朝だった。
男と出会ってから五年、男が引っ越した自宅兼教団本部の豪邸に、私も連れてこられていた。邸から前庭に出て、朝日に照らされた雪の上を浮遊していた私は、門の外にぼんやりと発光する人の形を見つけた。
私が見つけた時には、向こうの方はとっくに気が付いていたらしく、おいでおいでと手招きしてきた。私はしばらく躊躇したが、それが遠い昔に度々つるんでいた幽霊だと気付いた途端、彼に駆け寄った。私は男の許可なしでは出ることのできない門扉越しに、昔馴染みに話し掛けた。
「やあ、ひさしぶりじゃないか…君はその、随分…」
「変わっただろう」
昔馴染みは以前は私と同じ、薄暗い影を纏っていた。それが、今の彼は仄かに自ら内側から光を放っていた。
「目覚めたのさ。今や、僕は前の僕とは別ものだ。それにしても、君も随分と様子が変わったね。不自由なようだし、影も濃くなってしまったように見えるよ。どうしてしまったのさ」
「それが…昔とは状況が変わってしまったんだ」
私は、男と出会ってからの出来事を彼にかいつまんで話した。
その夜、男は珍しく日付が変わる前に床についた。彼は今や以前の大酒を煽る生活に戻っていた。ただ、その酒の値段が二桁以上高くなってはいた。
理由はわからないが、男は酒に酔うとほんの少し霊感が落ちた。しかし、飼っている幽霊が邸の外に出て行くのに気付かないほどでない。だが、幽霊が邸内のどこをうろつき何をしているか感じない程度には鈍感になった。
私はいくつもの壁をすり抜け、男が直弟子すらも入れない、邸の最奥にある厳重に施錠された部屋に向かった。その狭い部屋には、五年前に男が買った安物のカーテン生地がめぐらされ、中央に置かれたハイスツールにはガラス玉が載っていた。
門扉を挟み、私と男との話を都度相槌を打ちながら聞き終えた昔馴染みは、深く私に同情してみせた。
「うん、それは大変だったね。自由だった君が囚われてしまうなんて」
「それもそうだが、それよりも、彼が敵とみなした人々を苦しめるのに加担していることが、何より辛いんだ」
その時、私の頭が締め付けられているかのように、ひどく痛んだ。私が邸の中に居ないことに男が気が付いた証しだった。
「男が私を呼んでいる。戻らなくては」
頭を抱え痛がる私を、それでも昔馴染みは引き留めた。
「この家に、透明な球体かなんかがないかい?」
「ああ…水晶玉に似せた、ガラス玉があるよ。奥の部屋に」
「多分、それのことだろう。それを壊せば、このお邸に君を縛り、僕たちを通さない結界の効果がなくなるらしいんだ」
男が自分を呼ぶ声が聞こえた。今すぐ返事をして、男の前に姿を現さなければ、更なる苦痛を与えられることだろう。
「わかった。ガラス玉を壊せばいいんだな」
私は邸に戻りかけたが、その前に、痛みを堪えつつ門の向こうの昔馴染みに尋ねた。
「ところで、君はどうしてそんな、球体云々なんて話、知っているんだい?」
彼は笑顔で、「神に教えて貰ったのさ」と答えた。
安定した形状の置物を移動させるとなれば、幽霊には一苦労だっただろう。だが、球体の物を転がすくらいなら、できないことはなかった。私はガラス玉を落下させ、それが真っ逆さま、床で砕け散るのを見届けた。
すぐに、男が目を覚ました気配を察した。そうして、私がいる部屋に飛び起きた男が走ってくることも分かった。昔馴染みが言っていたことが本当なら私はもう男から解放され、邸から出られるはず。部屋から立ち去ろうとした私だったが、その場から動くことができなかった。
昔馴染みが言っていたことは、大嘘だったのか?邸の外に出ただけでも癇癪を起こす男が、自分が彼の宝物を壊したと知ったら、どうするのだろう。
私が元々血の気のない顔色を更に白くしていると、天井から七色の光が降りそそぎ、ゴーンゴーンという金の音が鳴り響いた。ひらひらと金箔と花びらが舞い落ちてきたかと思えば、冷たいだけだった床には緑が生い茂っていた。
部屋の扉を開け、飛び込んできたのは男だった。だが、私を痛めつける為に部屋にやって来た男は、一瞬でその目的を完全に忘れた。
男と私の目の前には、三つの光輝く人の形があった。光が一番弱いのは、私の昔馴染みであった。他の二つは彼より光が強く、中でも一つは、眩しすぎて直視するのは不可能だった。
最も強い光を放つ人の形は、ゆっくりと男に両手を差し伸べた。
「哀れな者よ。これ以上罪を重ねさせないことが、慈悲というもの。さぁ、わたくしにその身をゆだねなさい。恐れることはありません。犯してきた罪は全て許され、皆とひとつになるのです」
男は圧倒されたまま、一言も発することなく静かに光に包まれた。そうして、男の身体は膝から崩れ落ち、そのままうつ伏せに倒れ込んだ。
男の魂は、もう存在しなかった。幽霊になることも無く、男は体を残し、消え去った。私は悟った。自分は、自由を取り戻したのだと。これで、また以前と同じ生活を送れるのだと。
「神様!ありがとうございます!」
歓喜のあまり、私は未だ得体の知れない一番光が強い人の形に感謝した。その人の形は、私の方を向くとにっこり笑いかけてきた。
「哀れな魂よ。今こそ救われるときです」
私は、答えた。
「はい。ありがとうございます。私は救われました、貴方に」
人の形は、益々慈愛の表情を濃くした。
「ほんとうの救いというものを知らない哀れな魂よ、さあ、わたくしにその身をゆだねなさい」
私は話の通じる相手を求め、昔馴染みの方を見た。彼は、以前はしなかった妙な顔を、私に向けた。
「君は、影が濃くなり過ぎてしまった。浄化するにはもう、我々と一つになるしかないんだよ」
その顔は、上から目線の憐れみの表情だった。
「いや、私は、浄化なんてされなくていい。前のままで、いいんだ!」
「恐れることはありません。犯してきた罪は全て許され、皆とひとつにナルノデス」
「違うんですっ!許されなくていいんです!私は、私のままでいたいんです!このままで、この世に居続けたいんです!!」
「ミナトヒトツニナルノデス」
「嫌です!お願いです!神様!許して…いや、許さないで!神様、お願い…
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