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男が刺されたのは、今、男を抱いている彼女と契約を交わした直後だった。
場所は大手ショッピングモールの中央にあるオープンカフェ。
家族連れや、休日のショッピングを楽しむ人が行きかう華やかで、にぎやかな場所。
男は彼女の提案してくれた契約内容に満足していたし、もし、途中で意向に沿うことができなかった場合は全額返金するという保証が特に気に入っていた。
それに、彼女は自分の葬儀を担当してくれている女性だとしても、美人を前にして悪い気のする男はこの世にいない。
そして、ようやく「どうかよろしくお願いします。」と頭を下げて、席を立とうとした時だった。
突然、真後ろで悲鳴があがった。
人々が一点を見つめている。
そこには、サバイバルナイフをもった男が立っていた。
髭面で目が血走っている40代ぐらいのみすぼらしい男だ。
喜びに満ちたショッピングモールに戦慄が走る。
暴漢の足元には、女子高生が横たわっていた。体を丸め、苦しそうに呻いている。
刺されたのかどうか、明確には見えないが、血がべっとりとついたナイフを見て、誰もが青ざめる。
誰が一番始めに悲鳴を上げたかはわからない。しかし、その合図と共に誰もが走りだした。
蜘蛛の子を散らすように、我先にとその場を離れようとする。
男には全てがスローモーションで動いているように見えた。
男が座るテーブルと、暴漢の距離はさほどない。
もし、暴漢が走り出しでもしたら、男も担当者の女性も逃げ切れない。
それは彼女もわかっているのだ。立ち上がった顔から血の気という、血の気が失せている。
それからは、本能だけが体を動かした。
しかし、派手な音がして振り返ると、担当者の彼女が椅子に足を引っかけて、転んでいた。
彼女は必至な形相で、男に白い手を伸ばしてきた。
「た・す・け・て」
彼女の口はそう動いていた。
男は手足を振り乱しながら、テーブルへと向かった。
不幸なことながら、同時に暴漢も走り出した。
そして、男が掴んだのは―――自らの鞄だった。
ここには全てが詰まっている。置いていくわけにいかなかった。
信じられないものを見る目で、担当者の女性は男を仰ぎ見る。
白い手が宙をさ迷った。
男はそれを無視して、鞄を掴むと全速力でその場から逃げ出そうとした。
頭の片隅で、この後、暴漢の餌食となる女性のことを思ったが、自分の中から暴れでた生存本能が男をその場から遠ざけようとする。
さっきまで死ぬ準備をしていたのに、都合のいいことだ。
いや、所詮、人は自分の都合だけで生きている。
しかし、その都合は却下された。
暴漢が目の前で倒れている担当者には目もくれず、男にむかって走ってきたのだ。
嘘だろ?
迫りくる魔の手を振り返りながら、男は自らの怠惰であった生活を呪った。
体が思うように動かない。
どんどんどんどん。
その距離は縮まっていく。やがて、
ドン!
体に熱い衝撃が走った。
男の腹に焼かれたような痛みが走り、広がる。
刺されたところを冷静に認識しようとしている間に、第二撃がきた。
今度は、男の背中をぐりっとえぐっていく。
それからは、浅さ、深さ関係なく、次々と衝撃が襲って来た。
「あぁおぉあぉぁおぁおあおぁ!!!」
獣のような咆哮が男に降り注ぐ。
血まみれで倒れた男は、「死にたくない」と祈ることしかできることがなかった。
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