PLEASE PLEASE

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それでも俺は、生きていた。不思議と痛みもない。いや、考えてみれば、何の感覚自体が何もなかった。生きてる? 本当に? この状態で? 消防隊員を見る。強張ったような表情が、俺と目が合うと意を決したように口を開いて告げた。 「こういうことは、ごく稀にあります。切断面が綺麗で、血管をうまく防ぐものがある場合は……」 --即死には至らない。 おそらくはそう言いたかったのだろう。 しかし消防隊員はそこまでは言わず、その代わりに、 「話したい相手はいますか。ご家族とか恋人とか。会うのは無理……難しいでしょうが、電話なら……」 つまり、俺は死ぬのか。当然か。何しろ体が真っ二つなのだ。生きていることが、きっとそもそもあり得ない。 「家族も、恋人もいない」 絞り出すように告げた。 両親はどこの誰だかわからない。俺は名前すら付けられることなく、病院の前に放置されていた。もちろん兄弟もいない。恋人のようなものもできたこともない。友人と呼べる相手すらいなかった。唯一いたのは-- そこまで考えて我に返った。 俺は喘ぐように息を継ぎながら、消防隊員に尋ねた。 「今……何時……」 「今? 今は確か11時15分ぐらいのはずだが」 「……ラジオ」 「はい?」 「ラジオ……聞かせてください」 車内のオーディオは壊れている。そもそもエンジンだってかかっていないだろう。 でも聞きたい。イオリンの生放送はすでに始まっている。 消防団員が周波数を尋ねてきた。 息苦しさをこらえながら答えると、消防団員は一旦その場を立ち去り、再度戻ってきた時にはスマホを手にしていた。 周波数はすでに合わせてあるようで、スピーカーからイオリンの声らしき音声が聞こえてくる。けれども俺の周りが騒がしすぎて、何をしゃべっているのかまでははっきりとはわからない。 消防団員はそれを察して、おそらくは最大音量にしてあるであろうスマホを、動けない俺の耳の近くまで近づけてくれた。 『それではメールのコーナーです!』 今度ははっきりと聞こえた。イオリンの声だ。遅い時間なのに今日もハキハキと元気たっぷりに喋っていて、いつもと変わらないその明るさに、肩の力が抜けていくのを感じる。この声にいったい何度救われたことだろう? ろくでもない人生だったけれど、イオリンというアイドルを知ることができて、ほんの少しではあったけれど彼女を応援できたことは、俺の唯一の誇りであったように思う。 『それでは○○県のラジオネーム・哲夫さんからのメールです』 ドキリとする。息を呑む。思わずスマホの方を見てしまう。 俺の態度が奇妙だったのだろう、消防隊員も少し怪訝そうな顔をしてスマホの方へと耳を傾けてきた。 『えーっと、いつも楽しく拝聴しています。イオリンの声にいつも癒されています--本当ですか? ありがとうございます!』 礼を言いたいのはこちらの方だった。何の変哲もないラジオネーム。それは俺の本名で、万が一にも自分のメールが読まれた時、イオリンに名前を呼んでもらいたくてつけたものだった。 イオリンはその後も、大して面白みもない俺からのメールを読み続けた。要するに、年明けのシークレットライブに抽選で当たったから、それを楽しみに仕事頑張ろうと思う、というだけの内容だ。 初めて読まれたイオリンへのメール。今まで何度もメールを出してきたのに、わざわざ今日、わざわざこのタイミングで読まれることになるとは。 おまけにイオリンは、とんでもないことを言い出した。 『それじゃあちょっと、哲夫さんに電話してみちゃいましょうか』 電話……? イオリンが俺に……? いや、もちろんこれまでにも番組中に、同じような流れの出来事はあった。それはリスナーだから知ってるし、電話の相手を密かに妬みもしていたくらいである。 だから、信じられない。イオリンが、俺に電話を……? 目を白黒させているうちに助手席に放っておいた鞄の中で、スマホが着信メロディを鳴らし始めた。イオリンのデビュー曲を着メロにしたものだ。 「……電話、鳴ってます」 言われなくてもわかっていることを、消防団員が告げてくる。しかしその声は上擦っていて、おそらくは一緒に聞いていたのであろうラジオの内容と、俺の態度とで、電話の相手がイオリンであることを察したのだろう。 消防隊員はもう一人仲間を呼ぶと、持っていたスマホを俺の耳のそばに当てておくように指示をして、自分は助手席の方へと回り込み、そこにあった俺の鞄の中から勝手に俺のスマホを探し出した。そして、出ますよね、と当たり前のように目で訴えてくる。 もちろん出るべきだ。だってイオリンとおしゃべりができるチャンスなんて、巡り会うことはまずありえない。少なくとも俺には二度目はない。 ずっと恋焦がれ、応援してきた最愛のアイドルである彼女と、電話越しとはいえ一対一でしゃべれるという奇跡。 俺の人生はろくでもなくて、生まれてきたことそれ自体が間違いだったとしか思えないような30年だった。 けれども、最期にイオリンとしゃべれるのなら、俺のこれまでの不幸分を差し引いたって、お釣りが出る。ありがたい。本当に、ありがたい……。 俺の気持ちを察したかのように、視界の端で、動けない俺の代わりに、消防団員がスマホを操作しようとした。俺は口を開いた。 「ダメだ、出るな」 死にかけの人間とは思えないほど、はっきりとした声になった。と同時に咳き込みそうになる。それはすんでのところで抑え込んだ。 助手席側の消防団員が、未だ鳴り続けているスマホを手にちょっと驚いたような顔で俺を見た。 俺はもう一度繰り返した。 「出ないでくれ……頼むから」 「いや、でも……」 俺は口の中で無理やり唾を飲み込み、「出ないでほしいんだ」と繰り返した。 「この騒ぎ……この場所で、電話出たら、事故現場って気づくリスナー、出る……俺も、普通にしゃべる自信、ない……」 もう息が上がってきてる。気を抜くと、意識が深い谷底へ吸い込まれそうになる。 「俺の名前、本名だから、俺が死んで、新聞に名前出たら……」 死の間際に電話に出たのだと気づく奴が出るかもしれない。そうなったらイオリンの耳にも、その情報が入るかもしれない。俺の死に際の様子も、どこかに載ってしまうかもしれない。胴体が真っ二つの、死にかけな男との電話。トラウマになるには十分の相手だ。 「イオリンは、二十歳になったばかりの、女の子なんだ……アイドルで、笑顔が可愛くて、これからきっと、今よりずっと、明るい未来が待っている」 でも今の俺のことを知ったら、今俺としゃべったら、怖い思いをさせてしまうかもしれない。この先笑顔でいられなくなるかもしれない。 俺のスマホの着信メロディが止まった。 『出ませんね-……もう1回かけてみましょうか』 かけなくていいよ、イオリン。それより楽しいおしゃべり、最後まで聞かせてよ。 再び俺のスマホがイオリンのデビュー曲を鳴らし始める。 俺の大好きな曲。 たまたま見かけたデビューシングル発売記念の握手会で、冷やかし半分にCDを買い、握手の列に並んだ。そんな俺にも、イオリンは花開くように笑いかけてくれたっけ。 それから俺はずっとイオリンを追い続けている。 この電話の向こうに、イオリンがいる。俺が電話に出るのを待ってくれている。 それだけで十分。これ以上はいらない。 「……わかりました。待っていてください」 俺のスマホを手にしていた救急隊員が、その一言を残し、スマホ持ったまま唐突に駆け出した。 ラジオのブースの様子が変わったのは、それからほんの少し後のこと。 誰かが--あの消防隊員以外いないが--イオリンの電話に出たのだ。 『あ、もしもーし。ラジオネーム・哲夫さんですか?』 ちょっと間が開いて、 『いえ、あ、はい、あのー……哲夫の兄です』 『え? お兄さん?』 『は……実は弟は、そのー、急な夜勤で今仕事中で家にいなくて……』 『え、そうなんですか?』 耳のそばにあるスマホから、二人の会話が聞こえてくる。俺の兄こと消防隊員は、きっと車の中かどこかにいるのだろう、俺の周りは相変わらずの喧騒状態だというのに、ラジオからはその様子は伺えない。 『クリスマスの日までお仕事なんて、大変じゃないですか』 『は、はい。あ、でも弟は……哲夫は、イオリンもクリスマスに仕事してるんだから、自分も頑張らないといけないって』 『あ、そっか。そう言われると、確かに私もお仕事中でしたね!』 イオリンが朗らかに笑う。俺の好きな笑い声だ。 『それで、その……後で聞かせたいんで、頑張ってる哲夫にメッセージもらえたら嬉しいんですけど……』 『もちろんですよ! それじゃ、えーっと、哲夫さん! お仕事お疲れ様でーす! 電話でおしゃべりできなかったのは、すごく残念ですけど、私も頑張るんで、哲夫さんも頑張ってくださいね!』 「イオリン……」 喉の奥が震えた。鼻の奥がツンとなって、俺は慌てて唇を噛み締めた。 ありがとう、イオリン。 ありがとう、お兄ちゃん。 メッセージ、確かに受け取ったよ。 どうしよう。俺にこんな幸福な瞬間が来るなんて、夢にも思っていなかった。 『あっ、哲夫さんのメール、リクエストありますね。それじゃ私からお仕事頑張ってる哲夫さんに、音楽のプレゼントです。私のデビュー曲で、「神様お願い」です! どうぞ!』 スマホのスピーカーから、イオリンのデビュー曲が流れてきた。 俺は目を瞑った。すでに寒気すら感じなくなっていた。耳が、耳だけがイオリンの弾むような明るい歌声をかろうじて捉えている。 神様お願い please please あなたの明日が 笑顔で溢れていますように〜 車体が揺れた。俺の体も傾いだ。 誰かが大声で怒鳴っている。 唐突に訪れた終わりの瞬間、俺はきっとほんのちょっとだけ笑顔でいられたのではないかと思う。
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