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五日前に別れたはずの男に睨み付けられて美優は戸惑う。
「もう男がいるって本当かよ」
聞かれて正直に頷く。別れた次の日に今の彼と付き合い始めた。
「もう、したのかよ」
男の言葉に美優は首を傾げる。
「寝たのかって聞いてんだよ」
美優はびっくりしながら頷く。つきあい始めたその日のうちに抱き合った。
「やっぱりお前は誰でもいいんだな」
睨み付けている目が少し濡れているように見えた。
「俺を愛してたわけじゃない。試してみて正解だったよ」
男はつぶやくようにそう言うと立ち去った。
美優はきょとんとしたまま取り残される。
何を試したの?
別れ話は本気じゃなかったの?
その時スマホが震え今の彼から「会える?」の言葉が届き、美優はぱあっと笑顔になる。あったかい気持ちが沸き上がってくる。もう前の彼のことなんて忘れてしまう。
好き、好き、大好きと思うとさらに幸せな気持ちが溢れてくる。
すぐに返信して、バイト先に休む連絡を入れる。
急な欠勤に店長はあからさまに不機嫌な声だが美優は気にしない。
店長とはさっきの元彼の前につきあっていた。別れてからはいつも不機嫌だ。店長から別れようと言ったのに。
美優の住むのは郊外の小さな町で、進学や就職で出て行く人も少ない。地元で結婚し、町の商店や自営や農家で働く人がほとんどだ。道を歩けば同級生やその家族に会う。そんな町で美優はずっと暮らしてきた。
他の町からやってきて未婚のまま美優を産んだ母親は、養護施設も兼ねている町の教会に美優を残して去った。
寒い冬の日に薄いタオルケットにくるまれた生まれたばかりの裸の赤ん坊は、磔にされたキリスト像の前で細い声で泣いていたと、神父さんは教えてくれた。小さくて無力な赤ん坊は、けれどけっして泣き止むことはなかった。細い声でずっと泣き続けた。それで命が消える前に気づいてもらえたのだ。だから美優は強い子だ。そして生きるためにがんばれる子だ。神父様はずっとそう言い続けてくれた。
母親はそのまま町を出たらしい。この町に来た時にはすでに妊娠していたので、父親が誰なのかわかるはずもなかった。
美優は高校卒業まで施設で暮らし、今はバイトをして何とか一人でぎりぎりの生活をしている。
美優という名は神父様がつけてくれた。
その名のとおり、心の美しい優しい子でありたいと美優は心から思っている。だけど生きるのは楽じゃない。
学校の勉強や神父様の教えは、美優には難しくてわからないことばかりだった。普通にしているつもりでも、嘲るように笑われることがよくあった。仕事を覚えられなくて「頭わるっ」と吐き捨てるように言われたこともあった。他にもなんか苦しいなあ辛いなあ、と思う時がよくあるけれど、そんな時はイエス様の前に置かれた生まれたばかりの自分を想像する。諦めずに小さな声でずっと泣き続けた裸の赤ん坊を想像する。そうすると、自分には諦めずに生きる力があるんだと信じることができた。きっと心美しい優しい子にもなれるはずだと思えた。そして美優は祈る。誰かを深く愛せますように。誰かに強く愛されますように。愛し愛される人と結ばれて温かい家庭を築けますように。
それが美優の一番の願いだった。
まだ美優の知らない「幸せ」が、家庭にはあると信じている。それは、大好きな人に愛されて暮らすということ。そして美優も深く相手を愛するということ。
幼い頃からずっと神父様が話してくれた聖書のお話は何回聞いてもよくわからなかった。だけど、愛のすばらしさはわかった気がした。己を犠牲にしてでも人を愛するという気持ち。愛。なんて素晴らしい響き。わたしは愛が欲しい。そして愛を与えられる人間になりたい。神様、お願いです。わたしに愛を下さい。溢れんばかりの愛を。誰かに惜しみなく与えてもけしてなくならない愛を。美優はそう祈って生きてきた。
美優の肌の色は白く、美しかったという母親に似て顔立ちも整っている。それでいて、誰かに愛されたくて誰かを愛したくて仕方のない美優は隙だらけだから男が放っておかない。そのことが一番の願いを叶える障害となっているという皮肉に、美優は気づいていない。
そんな美優は大喜びで彼に会いに行き、抱かれる。美優はお腹が空いていても、彼は食事より今すぐ抱き合いたいと言う。そう言われて、美優は嬉しくて仕方ない。求められている、必要とされている、愛されている。そして全てを投げ出して彼の要求に応える。応えたいと願う。
「それは愛じゃないですよ」
眼鏡を拭きながら祐が言った。
「都合のいいセックスの相手にされているだけです」
眼鏡をかけ直して淡々と続ける。
祐もまた美優と同じ施設で育った。二人は同じ歳だけれど、祐は七歳の終わりに施設にやってきた。美優と違い、母親とその恋人のことは覚えている。
いつも酔っ払っていた二人。ろくに食事も与えてくれず風呂にもいれてもらえず、祐はいつも汚い格好で空腹で部屋にうずくまっていた。夏は暑くて冬は寒くて空腹で臭くて、それが気づいた時から当たり前の暮らしだった。幼稚園や学校にも行かせてもらっていなかったからその部屋だけが祐の世界だった。泣けば殴られたから一人の時にだけ静かに泣いた。そのうち、泣く気力も失った。助け出された時は餓死する寸前で、しばらく病院に入院していた。数ヶ月後、ようやく身体が回復して施設に預けられた。心を閉ざしたまま1年近くが過ぎてやっと周りとコミュニケーションをとれるようになっていった。母親とその恋人がどうなったのかは知らない。刑務所にいるのか、とっとと町を出て行ったのか。あれ以来会ってもいない。
祐もすでに施設を出て一人で暮らしているが、時々町で会うと、二人は公園のベンチや河原で話をする。
「誰とでも簡単に寝るから、軽く扱われるんです」
美優には祐の言ってることがわからない。
誰とでもなんかじゃない。わたしを必要として求めてくれる人とだけなのに。
「愛していたらもっと大切にするはずでしょう?」
祐は手の平をこすり合わせながら、その手に視線を向けたまま話す。
大切にするってどういうことだろう?わたしを求めて抱きしめてキスをして好きだと言ってくれるのは、愛じゃないの?
男性にしては細くて長い指を持つ祐の白い手を眺めながら美優は一生懸命考える。
「それに、自分を求めてくれる人を誰も彼も好きになるというのは、ある意味、あなたも不誠実です。求められなくなったらすぐに他の人っていうのは、つまり相手を愛してなんていなかったということでしょう」
祐の言うことは難しすぎる。美優は困ってしまう。何だかとても大切なことを言ってる気がする。だからわかりたいと思う。心から。だけど難しい。わたしを求めてくれる人を好きになるのは愛じゃないの?求められなくなったら、だってわたしは不要なんだよ?お母さんがわたしのこといらなかったみたいに、捨てられたらもうそれは諦めるしかないんじゃないの?
「祐は知ってるの?本当の愛を知ってるの?わたし、ずっと、ずっと探してるの。それだけがほしくて生きてるの。だから、知ってるなら教えて?どうしたら手に入る?」
美優の言葉に祐は顔を上げ目をしばたいた。
「・・・愛は教えるようなものでは」
「わたしは…頭が悪いから」
「…そういうことではないんです」
「じゃあ、祐がわたしを愛してくれる?」
美優にじっと見つめられて眼鏡の奥の目が泳ぐ。
「僕はまだ結婚できるような立場でもないですし」
「結婚できないと愛は存在しないの?」
「・・・そういう訳では」
「わたしを抱きたいと思う?」
「・・・そ、それは」
「それは愛じゃないの?」
「愛の、場合もあるかもしれないです」
「わたしは誰と抱き合う時も愛してるつもりだったよ。それが愛じゃないって言われたらわかんなくなっちゃうけど、でもね、みんな大好きだった」
美優はにっこり笑った。
「抱かれている時、キスしている時、会いたいって言われる時、いつも幸せだった」
心から大好きが溢れたよ。でもそれは愛じゃないのかな。わたし、また間違ってるのかな。
美優の言葉に祐は俯く。
彼はこれまで誰とつきあったことも、抱き合ったこともなかった。
愛ってなんだ?
僕はいつか誰かの肌に触れることがあるだろうか?愛おしくて触れたくて抱きしめたくてたまらないと思うことがあるだろうか?たとえば美優のこの顔や手に触れたいと願う日がくるだろうか?抱きしめたいと思うことがあるだろうか。愛をもって?
「神父様が言っていた愛もほんとはよくわからないの。イエス様がいつでも私たちを愛し見守ってくれるっていうのもよくわからないんだ。だって、イエス様はわたしを抱きしめてくれたり、頭なでてくれたり、キスしてくれたり、愛してるよって囁いてくれたりしないでしょう?でもそう言うと神父様は優しく微笑んで、美優は愛されていますよって言うの。でもイエス様のその愛だけじゃわたしは足りなくて、もっとちゃんと愛を感じたいって思っちゃう。だからずっと探してる。でもそんなこと言ったら罰当たりでしょう?だから神父様にも言えないの」
祐は一度だって神様なんて信じたことはなかった。生きるために教会の施設で暮らし、ミサにも参列し、神父様の教えも聞いてきた。けれど聖書の何にも心を動かされることはなかったし、教えを信じることはできなかった。神様なんているわけないじゃないか。もしいるならどうしてあの汚い部屋で空腹で転がっていた死にかけた子どもの存在を放っておいたりする?僕にはああなる理由があったとでも言うのか?美優は?生まれたとたん捨てられた子どもに神が何を言ったって、そんなものクソくらえとしか思えない。腹が減って死にそうな子どもに必要だったのは愛なんかじゃなく、愛?愛ってなんだよ、ふざけんな
ああっ苛々する。苛々する。
僕には何かが欠けている。
美しく優しいけれど限りなく愚かなこの女と同じくらい欠けている。
決定的に足りてない。
爆発しそうな気持ちを通り越して、絶望して、何百回目になるかわからない死への衝動が突き上げる。
その時、美優がくすくす笑って楽しそうに言った。
「愛ってよくわからないけどすごく甘くてふわふわでおいしそうだよね?いいなあ、やっぱり愛がほしいなあ。祐もほしいでしょ?」
祐の体から力が抜けて、ふはっと息が漏れた。
死への衝動もどこかへ消えた。
神様、僕は、この、聖なる愚者を、守ってやれますか?愛をもって?
愛なんて絶対にわからないけど。
だけど美優が決定的に傷つけられるのを見たくはないんだ。そんなの見たくない。
ああ、神様、神様?神様、いるのかよ。
僕は僕の心は、人を愛することができますか?僕がこの女を傷つけることはないと、保証できますか?できるのか?どうなんだよっ!
僕には肝心な何かが欠けているのに。完全に欠けているのに。
いるんなら、教えてくれよ、神様。いったい僕に何ができる?
だけど、もしかしたら、僕にしかわからないんじゃないか?僕にしか守れないんじゃないか?欠けている僕だからできることがあるんじゃないか?
いや、僕に何ができるというんだ。何もできやしない。できるはずがない。
それでも? いや、無理だ。
それでも?それでも?それでも?
自問し続ける佑の横で、美優は甘く溶けそうな顔をして、まだくすくす笑っている。
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