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「よいしょ、っと。これで一段落かな。まあ、そんなに広い部屋でも無いし、これだけあれば上等、かな。 」
すっかりと片付いた部屋を一望する。初めて持った私の城は、ほんのついさっき、今日の朝まで此処で生活していたとは思えないほどに寂しさを浮かべていた。
「後は遅めのお昼ご飯食べて、夕方には引越し屋さん来るから残りを急いで纏めて…… 」
一休みも兼ねてご飯にしようと思って立ち上がる。その時だ。視界の端にチラッと見えた物に思わず動きが止まる。ゴミだったら捨てないと、と思いそれの方へ身を屈める。私の前に現れたそれは、くしゃくしゃになった小さな白い紙箱だった。
一瞬それが何なのかは分からなかった。けれど、その紙箱に書かれた特徴的な字体と、側面に書かれた他の物では見ることの無い文字列を見た瞬間にそれの正体を理解し、それと同時に、記憶の片隅へと無理やり投げ捨てていた彼のことが頭を過ぎった。
「ねぇ、寒いから閉めてよ。なんでいつもわざわざ開けっ放しでタバコ吸うのよ。 」
「寒いのは俺も一緒。俺にだけ寒い思いさせる気? 」
「そんなの自業自得でしょ。嫌なら吸うの辞めるか、キッチンの換気扇の下で吸えば良いじゃん。 」
「換気扇の下だと煩くて集中出来ない。それに、外出て閉めたら絵梨と話せないじゃん。」
「もう、調子良いんだから。まあ、部屋の中で吸わないだけマシだけどさ。 」
「ごめんごめん。なるべく早く吸うから。」
彼は、彰は大学の同期で、大学で最初に出来た友達で、人生で初めて出来た彼氏だった。お互い一人暮らしをしていたけれど、私の家の方が大学からとお互いのバイト先から近いこともあって大体いつも私の家に居た。
デートなんて呼べるものは数回しかした憶えは無い。彼も一応、男としてそこは気にしていたらしいけれど、一人暮らしの大学生なんて毎月財布とにらめっこをして、自分のお腹に嘘をついて、生まれる情けなさと不安をお酒で消すような生活を送っているもので、私も彼もデートだなんだと言って遠出したり遊びに出たりするようなお金なんてそうそう持ち合わせてはいなかった。
幸いなことにお互いにインドア派だったから、そこについて喧嘩をしたことは一度たりとも無かった。
「……なあ。 」
「ん?どうしたの? 」
「絵梨はさ、自分のこと大人になったなぁって、思うこととかある? 」
「急にどうしたの? 」
「いや別に。ふと思っただけ。 」
「ふーん。んー、大人になったかは分からないけど、歳は取ったなって思うよ。年確されてもすぐに身分証出せるし。 」
「そうか。まあ、大人になることと歳を取ることは違うしな。 」
「そうかな?私にはよく分かんないや。 」
「俺はまだ大人になんてなれてないし、自分が二十歳超えてるって事実にも慣れてない。けど、あの頃から時間が経ってるんだなとは思うよ。 」
「あの頃って? 」
「高校生のときとか、中学生のときとか。こっち出てくる時はあんだけ大事だったはずの友達とか家族とか、思い出とかが段々薄れていってるのが分かるんだよ。 」
「あー、それはあるかも。卒業式のときの「卒業してからも遊ぼうね! 」なんて大体口だけだもんね。帰省しても会う人の方が少ないし。 」
「そうだろ。だから大人になるって、色々と忘れてしまうことと似てるのかな、なんて思ったんだよ。 」
「ふーん。難しいこと考えてるね。 」
あの頃の私には彼が何を言っているのか、何を思ってそんなことを言っているのかがさっぱり分からなかった。ただ、彰は同い年のはずなのに、少し大人っぽく見えることがよくあった。大人っぽくというと良い意味に聞こえるけれど、実際は悪い大人というか、使い古して錆まみれの金属のような、そんな大人に見えた。
だからこそ、彼の言っていることは分からないけれど、何故かいつも私の頭に薄らと残ってしまう。
「まあ、そんなことふと思っただけだよ。俺はまだまだガキってことだな。 」
「ふふ、そうかもね。 」
「じゃあガキなんで絵梨に存分に甘えようかな。それー! 」
「うわ、急に抱き着いてくるな!というか吸い終わったんなら窓閉めてよ! 」
「えー、もう動きたくない。それに、こうしてたら暑いくらいでしょ? 」
「それはそうだけど……。 」
「じゃあいいじゃん。今を楽しもうぜ。 」
「ほんと、ああ言えばこう言うんだから。」
彼の身体は同年代の男とは思えないほどに細かった。少し力を入れて抱き締めたら、簡単に壊れてしまうんじゃないかと思えるほどに。それなのに、彼に抱き締められている間は、他の何よりも安心出来て、一種の麻薬のようにも感じた。
彼の肩越しに見えた窓からは、今にも枯れそうな銀杏が揺れていた。出来ることなら、あの銀杏が枯れるまで、枯れた銀杏がまた咲き誇るまで、こうしていたかった。
「なぁ、絵梨。 」
「うん。 」
「俺は、絵梨のこと好きだよ。 」
「うん。 」
「絵梨は、俺のこと好き? 」
「うん。 」
「そっか、ありがとう。俺はまだまだガキだけど、絵梨とのこと、ちゃんと考えてるから。お金だって今は全然無いけど、絵梨となら、多分なんとかやっていける気がする。」
「うん。私も。 」
「ありがとう。 」
息をするとほんのりタバコの匂いがした。良い匂いなんかじゃないはずのそれが、不思議と心地よかった。
「そっか。もう一年以上経つんだよね。 」
くしゃくしゃになった箱を開くと、あの頃の匂いがした。私はタバコを吸わないし、周りに吸う人もいない。だから、私にとってのタバコと言えば彼しかいないのだ。
懐かしくなった私は、それを持ってベランダへ向かう。外に出ると暖かな陽気に包まれていた。
あの時、彼は自分のことをガキだなんて言っていたけれど、彼の言葉を借りるなら私もガキで、それはきっと今でも変わっていないと思う。
空を見上げ、口にくわえた大人の仮面にマッチで火を付けて息をする。少しだけ口に入れて吐き出すと、苦い味がした。
ぼんやりと視界を降ろすと、咲き始めた桜の蕾と、今はもう此処にいない彼の匂いが、私を抱き締めてくれた。
「ほんと、調子のいい嘘つきなんだから。」
ぽつりと呟いたその言葉を、彼の面影だけが聞いていた。
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