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高すぎず安すぎない周辺のオフィスワーカーが気軽に入れる飲み屋、と言ったいでたちのバーの室内には3人の人間がいた。
店長らしき中年のバーテンダーの男、中高年とおぼしき黒い幅広帽の男客、中年の女の客の3人である。店内はおよそ数分の間完全な沈黙が支配していた。
「最近どうも腑に落ちないことがある。」、室内の椅子に座った男客の一人が口火を切った。。
「へえ、」、店長は目の前のタブレットから視線を移さずに言った。片手にタブレット用のペンをくるくると回している。
「俺の若い頃はマスコミ関係で深夜まで働きづめでな、それなりにキツくはあったが充実していた。
何かのプロデューサーか何かだった知り合いがよく言ってたフレーズでな、『神無き時代の先駆者たち』、というのを仲間内で口ずさみながら
明け方まで飲んだりしてたものだよ。その言葉の通り当時は自分たちが」、男客はそう言うと白湯の入ったグラスを手に取り、紹興酒の入った隣の湯呑みに並々と注いだ。
「それが中高年になってみて自分だけいつの間にか先端から取り残されているような気がしてな……」、男はそこまで言うと湯呑を口元に運び、ちびり、と少しだけ飲み込んだ。
「そりゃあ……」、店長はPCから目を話しながら漏らし、絶句した。
「若いうちはみんなそんなもんなんじゃないの?」、女客。
「俺はお客さんよりは一回り以上若いがそんなの思ったはないな。あまり上は見ず無理もせずとにかく仕事が途切れないようにする。長らくそういう発想で生きてきたからな。
おかげで今の雇われ店長の職も確保できて収入もそこそこで安定しているが、同世代でも上の世代でも頑張ってるやつは変わらず凄い奴らなんだと思うよ」、店長
「でも店長がそういう仕事観なのわかる気がするかな」、女客。
「まあ、店長はともかく、一般には篠田さんの言う通りなんだろう。誰でも自分は、自分たちだけは特別で、上の世代は旧時代の遺物で偏見にとらわれて物事が分かってない。
そういう考えで漫然と生きてきていつの間にか自分も旧世代になっていたかと思えば歴史から消えていく。何百年、あるいは千年以上は続いてきたであろう定番の流れだ」、男客。
「でもそういう生きているうちに時代の変化を感じられるみたいなのは歴史的には最近のことでしょ。千年以上前の農村だったら
親の世代と自分の世代で文明レベルも生活水準も変わらないなんてことは世界どこでも当たり前だったと思うし」、篠田と呼ばれた女客は言った。
「それどころか天候不順が続いてで上の世代よりみんながみんな貧しくなるなんてこともあっただろうな。」、店長。
「それで結局腑に落ちないというのは何なの?」、女客。
「ああ、技術革新を始めとして社会が変わっていって。それは今後もしばらくは続く、と。
だがその進歩し続ける社会というのは今のような調子でこのまま続いていくものなのか、、」、男客を言いよどんだときに店長の割り込む声がした。
「いやそれはそれこそ人間並のAIが出来て根本からだな……」、店長。
「いや、昔からすごい人工知能が登場して社会が抜本的に変わるなどという人間は沢山いたわけだが
最近の流れだとAIで根本的は否定できない……」、男客。
「悪かった。言い方を変えよう。100年以上は続いているこの変革の時代。 その中にいるつもりでずっと働いてきて年老いた結果流れから取り残されたように感じているわけだが、
もしかして俺がこの時代の正体を捉えそこねていたのではないか。別の理解の仕方で把握していれば取り残されたように感じることはなかったのではないか、ということだ」、男客。
「それなら問題設定としてはわかるが……それねしても偉い漠然とした話だな……」、店長
「そんな真剣に悩んでるわけでもないがな……」、男客。
店長はフロア内を見回したが客は男客、女客の2人しかいなかった。しばしの沈黙が流れた
「手がかりか何かヒントになるものが」、店長。
「神無き時代の先駆者たち……か。神がでてくるような何か」、女客。
「興味深いお話ですな」、入り口からそう言って入ってきたのは別の男客だった。何回かの来店経験があることを店長は覚えている。
意思の強さを感じさせる若々しい顔立ちに整ったスーツ、そして頭には赤いバンダナという、どこかちぐはぐなコーディネイトをしていた。。
(この客の顔と服装のちぐはぐさにもだいぶなれたな)、店長は彼の頭に前回と変わらず赤いバンダナが巻かれていることを確認しながら思った。
彼の方向に不必要な視線を向けることがないように意識して自分の手の置かれたタブレットに視線を落とす。
(客だしあんまりチラチラ見ると失礼だからな。)
他の2人の客はバンダナの男に会釈をすると特に視線を泳がせることもなく、元いた方向に首を戻した。
「それにしても神ですか、神、神……」、バンダナの客はそう言いながら自分の髪をワシャワシャとかき回した。
(……髪と言いたいのか?いや、それにしてもこの店にこう、いかにもオタク的な要素が入った客がちょくちょく来るのは秋葉原界隈に近いからだろうか?)、
店長は怪訝な表情で目を細めながら思った。
「怪しい宗教団体……?」、女客は小声でつぶやいて首をかしげた。
「神と言えばこの前ちょっと気になるやりとりを聞きましてな」、バンダナの男、
「この地殻の通りでOL風のスーツを来た女性2人が妙なやりとりをしていましてですね」、。
「ほうほう」、腑に落ちないことがある方の帽子の男客は言った。
「お互いに拝みながら『神様お願い』『そちらこそ神様お願い』、とね。
はしゃぐような調子で言い終わったあと、立ち止まっていた2人は歩き出して大通りの方に消えていきました。」、バンダナの男。
「それは確かに背景を想像したくなるかな」、男客(腑、帽子)は言った。
「串上くんのことだし秋葉原でしょ?メイド喫茶系カフェのコスプレ店員なんじゃないの?」、女客。
「まあ土地がらそういうことも考えられますが出で立ちがフォーマル過ぎてそういう感じでもありませんでしたな。社員証らしきバッジもついていたよう」、串上と呼ばれたバンダナの男は言った。
「会社員風の女性2人がお互いに神様呼ばわりねか……」、元からいた帽子の男客はそれだけ言うと黙ってしまった。
「ちょっと見当がつかないかな」、女客。
「……」、しばしの沈黙が流れた。
「時代の正体論議にしても神様が出てくるエピソードの話にしても、ちょっとちょっとそれだけだと手詰まりって感じかな」、店長。
「まあ元々そんな大した話じゃないんだ引退が迫ってきた老人の与太話ということで軽く流してくれ」、帽子の男客はそれだけ言うと湯呑の中の大分ぬるくなった白湯を飲み干した。
「ただまあまあ変化する時代の当事者としての心持ちというのは興味深い話ではあるんだな。俺にしても今後は経営者と経営方針について会議して経営方針的な
ことを論じていかなきゃならないようだし。」、店長。
「手がかりといえばこういう店には色々な情報を持った方が集まるのでは?」、バンダナの男。
「そう、そうだな。何かネタがあったらメモしとくよ」、店長。
会話がそこまで進むと室内はしばらく沈黙に包まれ、話題はとりとめのない別のものに移っていった。
1週間後のある時間帯、店内の客はかつて黒い幅広帽子を着けていた壮年の男のみだった。今日の帽子は似たような形だったが室内灯の光で紺色の表面が露呈していた。
「そういえば先週は妙な話をしていたな」、帽子の男客。
「ああ、あのことか。例の話、案外簡単にわかったよ。」、店長はこともなげに言った。
「それは……」、男客は目を見開きながら言った。
「リクルートスーツのOLらしき女性客が2人来てだな、会社を経営しているとも、新人研修を受けているともとれるよく分からない話をして、他に客もいなかったんで声をかけてみたんだよ。」、
店長は2つのコップにビールと水を注ぎはじめた。(この客は水と酒の両方が必要なんだよな)、店長は考えながら口を開いた。
「それで分かったのは2人は今年入ったばかりの会社員で新人研修でECサイトを作っているんだそうだ」、店長。
「ECサイト?うーん、俺は古い人間なんで技術的なことには疎いがネット上で物を売ったりするようなやつか?」、帽子の男客。
「さすが。疎いと言いつつ分かってるじゃないの」、店長は軽い笑いを浮かべながら続けた。
「まあな、職業柄記事の類を読むことは多いからな。特に最近は足で取材するのが辛いもんでネットで調べた情報で作文して一仕事終わり、みたいなのが増えてきて昔より活字に触れる量が増えてる可能性すらあるな。」、帽子の男客。
「それでまあ研修のカリキュラムとして基本はECサイト作って動作確認して終わり、というものらしいんだがその2人は趣味の反物やお茶で物販をしたいと会社に副業の許可もとってサイト運営をしているらしいんだな。」、店長。
「そうするともしかしてお互いに神様と呼び合っていたのは……」
「さっきから話が速いな。そう、翡翠だが橄欖石の小物でお互い客として買い取って欲しい物があったからああいう話になっていたんだそうだ」
「……」、帽子の男客はそれを聞くと黙ってしまった。顔を斜め下の方に傾けながら、カウンターの方にある日本酒の瓶を差し出した。常連である彼がキープしているボトルである。
「なにか考えがあるのかな?」、店長は酒瓶をあけながら言った。
「いや、この前話した神無き時代に先駆者を気取って時代に取り残される男の話だがな」、男客は日本酒を水の入ったコップに注ぎながら続けた。
「今の話を聞いて少し、少しだがわかったことがある」、男客はそういったあとしばらく沈黙していた。
「……」、男客は時間経過の後話しだした。
「俺が見落としていたことが2つあって、まず時代の流れという固定されたものがあってそこに乗ることが時代の先端を走るといような感覚があったことだ」、男客に対して店長は軽くうなずいた。
「もう一つ、先進性というのは守旧と改革の対立、新しいものを肯定したがるか古いものを肯定したがるかの対立の片方だという概念を持っていたことだ。」、男客。
「いや、それは普通というか当然じゃないか?」、店長。
「それもそうなのだが本当に新しいものというのは新しいと認識すらされていない状態なのではないか?」、男客。
「まあ、そうだろうな。」、店長の顔はどことなくひきつっていた。(旧にうさんくさい話が始まったな。この客大丈夫か?)
「そして新しいものと言っても大抵は先例のあるものの組み合わせだ。少なくとも俺のような凡人に思いつけるとしたら」
「……(返答に困る話だな)」、男客の沈黙の間に店長は言った。
「例の女子OL2人がお互いを神様と呼び合っていたというのは多神教の神話があった時代、あるいは宗教の影響が強かった時代の文化を気軽に
つまんで再現してるということになるわけだ。インターネットという技術や自分の収入、ecサイト運営という経営力といった現代的な要素を使って
神になってり商人を演じたり、そういう出入りが自由な神話の多神教的な世界観をはからずも演出しているということになるんだよ」
「……」、店長は男客の目の奥に妙な光が宿るのを見ながら
「つまり真に新しいことというのは自分のやりたいことをこれは新しいと強弁する押しの強さなんじゃないかと思うわけだよ」
「うーん、それはなんというか温故知新とかあたり」
「それはまあそうだ、だが自分が時代の先端を作って走る、というアイデアについて何となく把握できたような感じがするのは確かだ」
「起業でもするのか?」、店長。
「具体的なアイデアがない以上そんな危険なことはやってられん。とりあえず動画投稿して副業にするというのは調べてみようと思う。」、男客。
「ほう、……」、店長。
「とりあえずのテーマは在宅ワークでの健康器具を利用した体調管理、あたりかな」、男客。
(在宅ワークでPCは使うとして、健康器具で環境を改善する?その器具というのは具体的には?よく分からんところはあるがまあ今の時代の先端と言えば先端か……)、店長はひとしきり考えたあと言った。
「健康の話題に自信があるのかい?」、店長の顔は先程よりは穏やかになっていた。(それにしても話題が無難な方向に行きそうでよかったな。)
「まあな、実は昔徹夜で一緒に飲んでたやつは体壊して退職、音信不通みたいなパターンが多いんだが、俺は酒は水で薄めて飲むし徹夜の飲みといってもみんなが議論してる横で
酔ったふりして居眠りなんてしょちゅうよ。」、男客が言うのを聞き店長はクスッと笑いながら手元のグラスを指で軽く弾いた。
ピィーン。金属音のようなコップの響きが生じ、そして消えた。
「俺がさっきいったようなことも連中は居眠りしてる俺の横で20年くらい早く到達していたのかもな。でもだからって健康壊してちゃ新しいことはできないからな。」
「20年か……」、店長は男が急に老けたような錯覚に襲われた。この男のいつも着けている帽子を取れば年老いた印象はより強くなるのだろうか?
いずれにせよ、強くなった老いの印象と同時に男客の目には先週にも今日の来店直後にもなかった奇妙な気迫が生じているのも確かだった。
「まあ健康第一ってのは普遍の真理だな。ところで何か飲むかい?」、男客のグラスがすべて空であることに気づいた店長は尋ねた。
「そうだな、今日は給料日だしノンアルコールビール、ゼロカロリーコーラ、烏龍茶の3つで、あとお湯は無料だろ?俺がセルフサービスで入れるから」、楽しそうに口に出た男客の注文に店長は苦笑いを隠せなかった。
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