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「計算が狂った」  物見窓から空を見上げて男はひとりごちた。  太陽はすっかり空とおさらばしており、その姿はもう見えない。代わりに月がぷかりと浮いていた。  日が暮れる前に屋敷へ帰る予定だったのだ。同僚達に別れを告げて牛車に乗り込んだところまでは予定通りだった。ところが、牛車は一向に屋敷へ辿り着かないまま今に至る。 「おい。おい、どうしたのか」  牛飼童に問うが、返事はない。男は首を傾げ、もう一度物見窓の外を確認した。どうやら牛車は停止しているようである。どうりで屋敷に着かないわけだ。職務怠慢な牛飼童にわずかな苛立ちを覚えつつ、男は牛車から飛び降りた。  すると、なんということだろうか。牛飼童はおろか、牛さえもいないのである。一体いつからこの牛車はここに停止しているのだろう。男は周囲を見回すが、少年も牛もどこにも見当たらない。それどころか、人っ子一人いないのである。  牛車の周りは一面の野原だった。ぼうぼうと草が生える中に、男は牛車と共にぽつんと取り残されている。これは明らかにおかしい。もののけの類に惑わされでもしたのだろうかと、男は息を殺して辺りを警戒する。  そこへ――。 「やあ、こんばんは! 神様です!」  白い狩衣を纏った不審な人物が現れた。男は悲鳴を上げて後退し、牛車に激突する。強打した背中を押さえて蹲っていると、不審者がどんどん距離を詰めてきた。予定が狂ったという悲しみと、急いで遅れを取り戻さなければという焦りと、こいつは何なんだという動揺を同時に覚えながら、男は背中をさする。 「すまないすまない。驚かせてしまったようだ」 「何者だ……!」  逃げようとしたり、ぶつかったり、蹲ったりした結果、男の頭からは烏帽子が落ちてしまっていた。草の上に転がる烏帽子に目もくれずに、男は不審者を鋭く睨みつける。烏帽子がないことよりも、怪しさが服を着て歩いているような者に近付かれることの方が今の彼にとっては重大な問題なのだろう。  不審者は男の視線に屈することなく、朗らかに笑って見せた。狩衣を纏い烏帽子を被った装いは男のようであったが、たおやかさを感じさせる容姿は女のようであった。宮中で恋に迷う女房がかすんで見えてしまうほどに、不審者は美しい存在だったのである。
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