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「神様、お願いします」  定期的に訪れている祠の前で男は呟いた。 「妻が身籠りました。どうか、無事に子が生まれますように。どうか、妻が無事でありますように。それが私の真の願いです」 「それで本当にいいの? 一気に出世したいとか、そういうのでもいいんだよ」  どこからともなく声が聞こえた。声の主を探すことはせずに、男は静かに祠を見つめている。 「私は努力は怠らない。しっかり計画は立ててある。このまま行けばある程度までは上がれるだろう。そこから先は、その時また考えればいい。この計画の中に、神の力で楽をするなどという項目はない」 「変わったと思ったけど、変わらないね。あの時より厳格なのに、あの時より柔軟で、あの時より元気そうだ。うむ、分かったよ。わたしの大事な人の子よ。貴方の妻と子が、無事でありますように。ふふん、承った! 任せなさい!」 「恩に着る」 「ううん。いつも助けてもらってるのはわたしだからね。お礼をするのは当然なのさ」  力強さと繊細さを同居させた手が祠を撫でた。  男の目に見えたのはそんな手だけだった。簡単に姿を見せるつもりはないのだろう。あの不可思議な夜だけが特別だったのだ。 「祈ってくれてありがとう。今だって祠を綺麗にしてくれたんだよね。分かっているとも。いつもありがとう、人の子よ」  土や草に染まり茶色と緑を重ねてしまっている狩衣の袖が誰かに引っ張られたように感じられた。爪の間に土の入った手を振りかざすが、何も捉えることはできない。自分達がやるから、と言う従者を退けて葉や草を避けていたのを神はお見通しなのだろう。  男は改めて祠に手を合わせる。 「神様、お願いします。妻を、子を」  木々の葉がざわざわと音を立てた直後、朗らかな笑い声が自分の周囲を回ったようだった。あの夜、煩わしいと思った声に安心する時が来るとは。男は、随分と自分は変わってしまったのだなと笑った。そして、変わらない部分もあるのだともう一度笑った。  風に落とされた葉を祠から落とし、男はその場を後にした。  彼の屋敷が大きな喜びに包まれるのは、あと数ヶ月(のち)のことである。
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