甘い仕返し

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甘い仕返し

「先輩、ただいま…って」 意気揚々と放った声は、たちまち空気の抜けた風船のようにしぼんだ。 「寝てるし」 柊さんは眼鏡をかけたまますうすうと寝息を立てて眠っている。 ひょい、と瓶底眼鏡を取り上げ、そうっと長い前髪を払う。そこには予想通り、いや予想以上の端正な顔があった。顔色は悪く隈もひどいが、そばかすの散った顔はあどけなさを感じさせ、対照的に、女性がこぞってうらやましがりそうなくっきりとした二重幅は妖艶だった。いたずらに、すっきりと通った鼻筋を少しつまんでみる。 「ううう」 顔をしかめ、俺の手を避けようとやみくもに手を動かす。 ぱっと手を離すと、安心したようにまたすうすうと寝息を立て始めた。 ああもう、どこまで俺を焦らすつもりなんだこの人は。 よこしまな気持ちを必死で抑え込みながら、なんとかスーツを脱がせ、パジャマに着せ替える。 「おやすみ、先輩」 そっと小さな額に唇を落とし、横になっている柊さんを頭ごと抱きしめて、布団に一緒にくるまる。 このままずっと、2人でいられたらいいのに。 そんなことを考えながら、少しずつ意識を手放そうとした…が、寸前で踏みとどまった。 「ふふ。ごめんね先輩?俺から逃げた仕返しです」 「うわああああ」 意識が浮上するとともに、僕は悲鳴を上げてのけぞった。 僕の隣に春野君が寝ている。腕枕されている。しかも、僕は見たことのないシルクのパジャマを着ていて、そして春野君はパンツ一丁だ。 僕らの周りにはティッシュが散乱していて、シーツは乱れている。 ここここここれって、も、も、もしかして、もしかすると、まさか、まさか。 「ふあああ…先輩もう起きたんですか?ってまだ6時じゃん。今日土曜日だよ?もうちょっと寝ましょうよお…」 春野は眠たそうに文句を言い、そのまま自然に僕のことを抱えなおそうとした。慌ててその手を押しとどめる。 「いやいやいやいやそれどころじゃないだろう!これどういうこと?まさか…僕…」 「もう。先輩ったら野暮だなあ。言葉で言わせるんですか?こんなすがすがしい朝に?」 僕は青ざめる。まさか、本当に…。 「昨夜は気持ちよかったですね先輩。まさか僕がなんて思いもしなかったけど、先輩も楽しそうだったし良かったです。でも僕、初めてだったんですよね…これじゃあ女の子に示しがつかないな」 「嘘だろ?これまでネコしか経験したことないのに…急にタチなんて務まるはずが…」 思わず心の声が漏れる。わずかに春野が目をすがめた。怒っている? 「ふーん…その割にはずいぶん手馴れてましたよ?俺もちょっと抵抗あったんですけど、あんまりに先輩ががっついてくるから仕方なく、ね。」 声が出なかった。そんな鬼畜なことをまさか自分がやるなんて。しかも恐らくノンケである後輩に向かって欲望を吐き散らかすなんてそんなことを。 「本当に本当に申し訳ない。なんだってする。訴えてくれてもかまわない。僕は社会人失格だ。人の屑だ」 ベッドから飛び降りて床に頭をこすり付け、土下座をした。涙がこみあげてくるが、春野君が慌てたように僕の体を抱えこむ。 「やめてくださいよ先輩!…最初はたしかに抵抗ありましたけど、段々楽しくなっちゃって、もう全然無理やりとかそんなんじゃないですから!」 「でも…!」 「でもまあそんなに先輩が謝るなら、お願いしてもいいですか?」 「なんでも言ってくれ!」 「先輩の金曜日の夜を僕に下さい。僕が満足するまで」 何を言われたのか分からなかった。いったいどういうことだろう?金曜の夜? 「いや、なんか昨日の夜が楽しすぎたから、もうちょっと試してみたいなと思って。それに、もっと先輩と普通に仲良くなりたいです」 「それは…かまわないが、罰として甘すぎる。僕は君に最低なことをしたのに」 「これまでずっと、先輩に避けられてたこと、結構傷ついてたんです。昨日は仲良くできてうれしかったけど、まだ心のほうは…仲良くなれてないでしょ? もっと先輩を知りたい。だめですか?」 蠱惑的にほほ笑む春野は、さながら捕食者だ。少しずつ頭の中がクリアになるにつれ、心の中で「ありえない」と叫び声が聞こえる。何をどう考えても、ネコしかしたことのない僕がノンケの彼を抱いたとは思えない。けれど、深酒のあまり彼とホテルに入った後の記憶が全くない以上、彼の言い分を否定することは不可能だった。しかも、彼の提示した条件は僕にとって好都合すぎた。つまり、好きな男を一晩だけ独占できるという、思わぬ僥倖。この好機を逃せば、二度とないだろう。 「わかった。それで君が満足するならば」 神妙にうなずいたけれど、内心胸は高鳴っていた。胸中にうずく罪の意識とは裏腹に。 「ありがとうございます先輩。これからよろしくお願いしますね」 …先輩ごめんなさい。俺は嘘つきです。昨日の夜、あなたはずっと寝ていました。俺はただふうに見せかけるための小細工を施しただけ。けれど、あなたが悪いんです。俺を避けるから。逃げたりするから。けれどもうきっと逃がさない。 金曜日の約束はまだ、始まったばかりだ。
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