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不眠症です
金曜夜を、心待ちにしている自分がいる。
その時間が来れば、つまらない僕の世界は君で色づく。
たとえそれが身体だけの関係だとしても、この思い出があれば、僕はこれからも生きていけるんだから。
とくに他にやりたいこともないので、手当たり次第に入社試験を受けまくり、いくつか内定をもらった中で一番給与が高い会社に入社した。仕事は可もなく不可もなくといった感じで、やりがいも特にないが、辞める理由もない。惰性のままに働いている感覚だが、ある仕事の出来が評価されて昇進し、新入社員の教育係を務めることになった。面倒くさい気持ちを噛み殺し、新入社員と顔を合わせたその瞬間、わかってしまった。
絶対に僕はこの男を好きになると。
そんな感覚は初めてだったが、彼に仕事を教えるうちにすぐ理由が分かった。
小柄で、童顔で、内向的で、友達も少なく、そして自分の性指向を周囲の人間に決して悟らせまいと常に警戒して生きている自分、柊樹。自他共に認める、暗くじめじめとした男だ。
それに対し大柄で、顔のパーツがすべて大きく濃い目の顔立ち、社交的で先輩社員にも可愛がられ、堂々としており物怖じしない性格の彼、春野太陽。名前からして眩しい。
つまりすべてが正反対だった。他の社員からも「凸凹コンビ」などとからかわれたから、そう思っているのは自分だけではなかったようだ。
きっと同じ会社に入らなければ一生接点もなかっただろう、カースト上位の彼。そんな彼に日々惹かれていく自分がとても怖かった。
だから、教育係と、部下の関係を崩さないことに躍起になり、必要以上の話はせず、なにか聞かれても他人行儀な笑顔でごまかした。
それなのに、彼はー春野は、なぜか俺になついてしまった。昼休みには一緒に昼食を食べたいと誘い、終業時間後には飲みにいこうと誘ってくる。毎回誘いを断るたびに、散歩を拒まれてうなだれた犬のようにしょんぼりとしてしまうのは心苦しかったし、最近は彼に気のある女子たちが、一向に誘いに乗らない僕に対して敵意をむき出しにしてくるのが面倒くさかった。いっそのこと誘いに乗ってしまおうかと思う時もあったが、そのたびに、いつでも思い出した。
高校時代、好きだった男に好意を告げた日のこと。
「きもちわるい」という冷たい声を耳元でよみがえらせると、春野への熱は、途端にひんやりと冷たくなる。
そして、「今日は無理です」と冷淡な声で断ることができた。
昼休みは自分のデスクで持参した弁当を1人で食べるし、終業後には向かう場所があった。
そう、あの日も春野からの飲みの誘いを断った後、僕はいつもの場所に向かった。
市街地から少し外れた路地裏にある、小さなバー。
そこは、自分と同じ性指向の者が集まる場所だった。酒を飲むだけの夜もあるが、たいてい僕はこの場所に、夜の相手を探しに来ていた。
危なそうな人物はすぐにバーのママが追い出してしまうこともあり、バーの客のほとんどは顔見知りだ。安心して利用できることに感謝しながら、その日もバーに足を踏み入れた。
運よく、人当たりのいい同年代の男がすぐに見つかり、そのまま店を出てホテルへと向かうことになった。
酒の勢いもあり、男と肩を組んで店から出た時。
「…柊さん」
背後から一番聞きたくない声が聞こえた。
「春野…」
まさか待ち伏せしていたのだろうか。何かの間違いであってほしい。ゆっくりと振り向くと、そこには願い虚しく、彼が立っていた。彼が僕たちを見る目は冷たく、凍てつくようだった。
「その男誰ですか?」
「……プライベートなことには答えられません」
「あれ、ひいちゃんの知り合い?」
「…いいえ。知らない人です。」
そう言った瞬間、視界の端で春野が傷ついた表情を浮かべたのが分かった。でも、これ以上深入りされたくない。
「行きましょう」
そう言って、何か言いたげな男をなかば引きずるようにして、春野をその場に残したまま、僕たちはホテルへと歩いて行った。
その日の夜は終始気まずい空気が流れ、ちっとも盛り上がらず、前戯だけで終わってしまった。
翌日、会社に行くなり、先に入社していた春野に「話があります」と有無を言わさぬ口調で会議室に連れていかれた。
彼はまるで捕食者のように僕を真っ直ぐにみつめてくる。
「昨日のこと、どういうことなんですか?説明してください」
「…何のことかさっぱりわかりませんが」
そう言って目をそらし、どうにか会議室から出ようと画策していると、ガン、と壁に両腕を突き、逃げ道をふさがれる。
「これを見ても?」
そう言って彼が僕に、スマートフォンの画面を見せてくる。
そこには、僕と昨日の男が肩を組んでホテルに入っていく写真が表示されていた。
「酔っぱらっていた彼を介抱してあげただけです」
「…ラブホテルで、ですか?」
「…彼が不眠症で困っていると言うので、一緒に寝てあげたんです。それだけです」
我ながら苦しすぎる言い訳だったが、なんとかその場しのぎをしたかった。否定できずに黙りこむ彼の腕の下をくぐり抜けて、会議室から出ようとしたそのとき、彼は叫んだ。
「俺も不眠症なんです!だから、一緒に寝てください!」
何かを振り切ったかのようにはっきりとした声音でそう言うと、僕に向かって土下座まで始めた。
「は?いや、ちょっ…春野さん、顔を上げてください、それに声が大きいです」
「いやです!やめません!僕は柊先輩と仲良くなりたいんです!もし断るなら、毎晩あの店まで押しかけます!」
「いや、それはちょっと…」
「どうしてですか?俺のお願いは聞いてくれないのに、あの男のお願いは聞くんですか?ひどいです!俺もすごく困っているんですよ!」
まずい。会議室は防音だとはいえ、こんなに大きな声でずっと叫ばれたら、誰かが何事かと部屋に飛んでくるだろう。そこでもし彼が、昨日の写真を見せたら…
「だから、あの…」
「週に1度でいいから!お願いします!!!」
ここに来ての大声。僕はついに音を上げた。
「分かった!分かった!わかりましたから!」
やっとの思いでそう言うと、彼は先ほどまでの剣吞さが嘘のように、ニコニコ笑顔で僕を見る。
「やったあ!うれしいです。これからもよろしくお願いしますね、先輩!」
僕はその無邪気な笑顔を見ながら、これからのことを考えて頭を抱えた。
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