始まりの金曜日

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始まりの金曜日

春野の猛プッシュに圧倒され、添い寝を不本意ながら承諾してしまったその日、彼は笑顔で僕を飲みに誘った。 嫌だ行きたくない、と喉元まで出かかったが、春野の目の奥に拒否できない圧を感じ、観念して俺はうなずいてしまった。まあいいか、金曜日の夜だし。 「柊先輩って猫好きですよね?」 「なんで知って…」 「公園の猫にチャッピーって名前つけて可愛がってるでしょ」 ビールを危うく吹きそうになった。 「は?!なんでそれを」 「尾けてました」 僕は盛大なため息をついた。対照的に、春野はにこにこ笑顔を浮かべている。 「だって、柊先輩がつれないから」 そう言って上目遣いで俺を見つめる小悪魔な姿が、板についている。おかしい。こいつ、僕と同じ男で、しかも年下で、背も体格も僕より大きいのに… 「俺ずっとさみしかったんですよ。何言っても拒否、拒否、拒否でしょ?どうしてそんなに拒むんですか?」 黙っていると、彼はビールを飲みながら、にこやかに聞いてきた。 「過去に何かあったとか?」 その瞬間、僕の心はすうっと冷たくなった。すこし浮かれすぎたようだ。 「春野くん…君には」 「関係ないんでしょ?はいはい。今はまだいいですよ。そのうち、そんなこと思い出させないくらい、頭のなか俺のことでいっぱいにしてあげますから」 今度こそ、僕はビールを吹いてしまった。汚いことこの上ない。 春野はあたふたする僕を愉快そうに見つめながら、僕のワイシャツを指でつつく。 「ちょっ、何するんですか」 「濡れちゃいましたね?ビール」 見ると、春野の言う通り、吹いたビールがかかって、汚れてしまっている。 「水で濡らせばいいだろう」 そう言ってトイレに向かおうとした僕を、春野が慌てたように引き留める。 「だめです!!水でぬらしたら透ける…!!」 「え?」 「あ、いやいや、そういうのは後処置が重要なんですよ。染み抜きするから、家に来てください。この店から近いんで」 「いいんですか?ありがたいな」 酔って頭がふわふわしているからか、親切な申し出に何も考えずに同意してしまう。 「ちょろすぎる…ほんと危ない…最悪…」 「ん?春野くん、何か言いましたか?」 「なんでもないですよ。さ、行きましょ」 その後、タクシーに揺られ20分。 「春野くん、さっき店から近いって言いましたよね?」 「そんなこと言いましたっけ?忘れちゃいました。まあ、もう着きますって」 その言葉を聞いていたかのように、タクシー運転手が「ここでいいですか?」と尋ねてくる。春野はうなずき、お金を出そうとする俺の腕を抑えて、さっさと支払いを済ませてしまった。 「おい、ここ…」 降り立ったのは、家ではなく、高級ホテルの前だった。 「家に行くって言いましたよね?」 「そうなんですけど~、俺ここの株主やってて優待券あるんで。もうすぐ有効期限切れちゃうから、もったいないでしょ?」 ね?とダメ押しできいてくる彼の瞳にはいくつもの星が浮いている。 「でも…」 「シャツだってクリーニングに出せるし、代わりのシャツもすぐ手配してくれるし、便利ですよ!ね?」 そのキラキラとした瞳に見とれているうち、僕はグイグイとホテルまで連れ込まれてしまった。 連れていかれたのは、どう見てもスタンダードではない客室だった。見たこともない高級な家具や、客室の広さを目の当たりにして、宿泊料金を脳内電卓で計算しながら徐々に酔いがさめていく。 「ここまさかスイートなんじゃ…?」 「さあどうでしょうね。にしても、綺麗な眺め。俺、ここから見る夜景が世界で一番好きなんです」 カーテンを開け、ビル街に燦然と輝く街の明かりを見つめながら、春野が笑う。僕の心がぎりりと音を立てて、痛んだ。 何も言わない僕を不審に思ったのか、春野がキョトンとした顔で俺を見る。 「だれかと…」 「えっ?」 「だれかと一緒にこの景色を見たことがあるんですか?」 言葉がこぼれて、はっと口をふさいだ。時すでに遅し。 「もしかして、先輩、嫉妬してる?」 「そんなわけないです!」 顔が赤く染まっていく。僕は頭を抱えた。 「ないですよ。ここは俺にとって大事な場所(テリトリー)なので、そんなに簡単に人を入れません」 「そうですか…」 言葉にこそ出さなかったが、安どを悟られてしまったのだろう、春野は微笑んだ。 そして、俺の胸ポケットをつつきながら呟いた。 「これクリーニング出さないといけないですよね。脱ぎましょうか」 「えっ、そんなにすぐ?」 「クロークが開いている時間が24時までなんで、もう預けないと」 時計を見ると、もう23時半を指している。 「ってわけなんで、はい、どうぞ」 そう言って春野は僕に右手を差し出す。 「どうぞ、って?」 「先輩が服脱いでくれたら、そのまま俺クローク行くんで」 彼はニコニコと、僕がシャツを脱ぐのを待っている。 「人に見られてると恥ずかしいんだけど…」 呟きは黙殺され、僕は春野の目の前でシャツを脱ぐ羽目になった。 「はい、お願いします…」 そう言って脱いだシャツを手渡すと、春野は僕から目をそらし、「渡してきます!お風呂沸かしておいたんで、どうぞ!」と言って猛ダッシュでドアを開けて走り去っていった。 「なんだ…?あと、いつのまにお風呂沸かしたんだろう」 僕は首を傾げながら、浴室に向かい、その絢爛豪華なバスタブに危うく腰を抜かしそうになったのだった。 「やばい、ああやばい、そのままベッドに押し倒すところだった。自制できた俺まじで偉い、偉いぞ…」 俺はハアハアと息を切らしながらクロークに駆け込んだ。 「春野様…?どうかなさいましたか?」 男性コンシェルジュが心配そうに俺に尋ねる。 「あ、いやなんでもない。急だったのに、部屋の確保と風呂の給湯ありがとう。」 「とんでもございません」 「悪いが、このシャツのクリーニング頼む、明日のチェックアウトまでにお願いしたい。あと、同じメーカーのワイシャツ1枚手配できるか?」 「はい、可能です。サイズはどうしましょうか?」 「俺と同じで」 「かしこまりました。…こちらのサイズだと、お連れ様には少々大きいかと」 有能すぎるコンシェルジュの言葉に思わず笑ってしまった。 「そこまで把握されているとはさすがだな」 「長い付き合いですので」 「はは。そうだな。サイズは俺と同じでいい、醍醐味だろ?」 「承知いたしました。手配して明日までに必ずお届けいたします」 「助かるよ」 俺は足取り軽く、先輩の待つ部屋へと駆け出した。
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