15話

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15話

遥はもうこない。二度と部屋に訪れない。 閉め切った暗い部屋、バスルームの浴槽にシャワーで湯をためる。 公式な遺書は書かないことに決めた。加害者の言い訳なんて聞きたくないはずだ。両親に恥をかかせるのは本意じゃないし、遥を必要以上には苦しめたくない。死ねばどのみち迷惑をかけてしまうだろうが、それはしかたない。腐れ縁のよしみで諦めてくれ。 意識が朦朧とする。既に睡眠薬を大量に飲んだ。早く効くように願い、カプセルを割って粉末を溶かした水は苦かった。途中で吐きそうになったが我慢した。遥はもっと苦しい思いをしたろうから。 償いなんて知るか。 贖いなんてできるわけない。 だから死ぬしかない。 遥が去ったあの日から、俺はピアノが弾けなくなった。 時任彼方は遂にピアノにも見放された。 斑鳩遥が一番になった俺に、ピアノが愛想を尽かしたのだ。 あの日を境に音楽が消えた。遥がリビングを出て玄関の扉を閉めた瞬間、頭の中の音楽が消えてしまった。静寂が苦しい。もう弾けない。 ピアノが弾けない俺に、価値なんて何もない。 追加で睡眠薬を何錠か噛み砕く。吐き戻したい苦味を必死に耐えて嚥下する。 バスルームに濛々とこもる湯気とうるさいシャワーの音が、虚無の水位を上げる静寂を埋め合わせてくれるのだけが唯一の救いだ。 遥にはもう会えない。 泣き言は言わない。 全部俺の身勝手が招いたことだ。 「……時よ止まれ、汝は美しいとでも書けばよかったな」 猛烈な睡魔が押し寄せて意識が混濁する。瞼がどんどん重くなる。浴槽に上半身をもたせ、霞む視界に虚ろな手をのばす。 時間は止まらない。 何も美しくはない。 でも、それでいい。それでいいんだ。 お前は俺の熱情を呼び覚ましてくれた。 なのにお前の熱情を見付けてやれなかった。 そんなもの最初からなかったのかもしれない。 お前に俺のピアノを遺す。最期にして最大のいやがらせだ、せいぜい憎んでほしい。 途中で力尽きた手がタイルに裏返る。浴槽のふちに頬を寝かせて、次第に目を閉じていく。 俺の生涯最初にして最後の曲の楽譜は、いずれお前のもとに届く。 既に信頼できる筋に手配済みだ。俺が死んでから一か月か二か月後、あるいはもっと後、世間が俺の自殺を忘れてほとぼりが冷めた頃、お前の住所に大判の郵便物が届く。その中に入っている。 『遥か、彼方』 俺の遺書だ。 有り難く受け取ってくれ。 視界がだんだん細くなる。眠くて瞼を開けていられない。二度と浮上できないまどろみの渕に沈みながら、楽譜の裏面に震える字で走り書きした、相変わらず独りよがりなメッセージを追憶する。 『ゆるさないでくれ。』 お前に許された俺を、俺はきっと許せない。 すぐさま許されて忘れられる位なら死ぬまで憎まれるほうがずっとマシだ。 すまない遥。 愛してる。 自分もだれも愛せないお前のぶんも、だれよりお前を愛するから。 だからどうか、ゆるさないでくれ。
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