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9話
俺は時任の部屋に行くのをやめた。
すごくそそる顔だと囁いたアイツの顔が、熱っぽい目が忘れられなくて、再びあの部屋に行くのが躊躇われた。大学でも時任を徹底的に避け、無視をした。時任もさすがに少しは気に病んでいるのか、露骨な不快感を顔に出せば近寄ってこなくなった。
俺が心から望んだ平穏な大学生活が戻ってきた。
中庭のベンチに座り、ハムサンドのビニールを剥がしていると、唐突に声をかけられた。
「すいません、今いいですか」
正面に知らない女学生が立っている。大人しそうなセミロングの美人だ。
「何か用かな」
「斑鳩遥さん、ですよね。彼方と親しい」
「ただの腐れ縁だよ」
また時任のファンかと内心ウンザリする。この手の人種に絡まれるのは慣れていた。中には時任の好みのタイプをさぐってほしいとか、代わりに気持ちを伝えてほしい、返事をもらってほしいと頼みこむ猛者もいる。
「アイツの知り合い?」
「彼女です」
「そうなんだ」
時任の好みからは少し外れてる気もしたがどうでもいい。
「あの……最近彼方の様子がおかしいのって、やっぱりあなたが原因なんですか」
女学生の目がにわかに険を帯びる。
「人聞き悪いな。おかしいって言われても、具体的に説明してもらわなきゃ答えようないよ」
「なんだか上の空っていうか……どこがどうとは言えないけど、あんまり笑わないし。失礼ですけど、あなたが何か彼方を傷付けるようなことしたんじゃないですか」
「憶測で語るのはやめてほしい、どちらかというとこっちが被害者だ。そもそも俺とアイツの間になにがあったって、他人に説明する義務はないね」
一方的に決め付けられて不愉快なので、わざと意地悪に冷笑を浴びせる。
女学生の眉間が皺を刻む。
眇めた目に嫉妬の火花が散るのを見逃さない。面倒だ。
「彼方は繊細なんです、面白半分にプライベートをひっかき回すのはやめてください」
「ご忠告どうも。アイツとは絶交したよ、もう近寄ることはない」
「そうなんですか?だって帰りは一緒で、部屋にも頻繁に上がり込んでるって」
「誰が言ったか知らないけど、アイツとはただの腐れ縁以上でも以下でもない。部屋に通ってたのはピアノめあてだ。クラシックが好きだって言ったら気を利かせて……感謝はしてるけど、そこまでしてもらっても迷惑だ」
「ひどい」
女学生が批判がましい顔をする。
「君の目は節穴だな」
ハムサンドを一口かじって嚥下、嘘偽りない本音を呟く。
「時任彼方ほど厚かましい男は知らないね。俺にかまってたのは悪質な暇潰しだよ、漸くちょっかいかけるのに飽きてくれてせいせいする」
「彼方を悪く言わないで、何も知らないくせに」
「ピアノをどう扱うかは知ってる」
「きっと丁寧に」
「手荒だよ。心がないんだアイツは」
「嘘!」
皮肉に甚く憤慨し、その場を駆け去る女学生を黙って見送る。
時任と俺の関係はとてもこじれていた。傍から見たら歪で不健全だ。
俺は時任の引き立て役で、おまけで、主と従なら従なのに、他の人間には何故か俺が束縛している誤解を受ける。
何故時任が俺なんかにかまうのか、どれだけ考えてもわからない。天才特有の気まぐれに尽きるなら、考えるだけ無駄だ。
時任の部屋に行かなくなってから、俺はずっとアイツの動画を聞いていた。
スマホの動画をくり返し再生し、それに飽き足らず音源をダウンロードし、移動中や休憩中に常に聞いているようになった。
時任の音楽は俺をゆっくり毒していく。
アイツが俺のためだけに弾くピアノを聞きたくて、渇望に似た衝動が沸き上がる。
時任に付き纏われない平和な日々が過ぎ、アイツの不在に物足りなさを覚え始めた頃、俺は自ら時任のマンションに足を向け、入口に佇んでアイツの部屋の窓を見上げるようになった。
ひょっとしたらアイツが弾くピアノの演奏が聞こえてくるんじゃないかと期待して。
しかしどんなにか目を閉じて夜に耳を澄ませても、防音仕様の壁は無慈悲に演奏を遮断する。
時任彼方が嫌いだ。
迷惑だ。
でも、アイツの演奏は嫌いじゃない。
時任の部屋を訪れ、傍らに立って音に身を委ねる時間は、俺にとってかけがえのないものになっていた。
時任のピアノが聞きたい。
もっと欲しい。
麻薬のような中毒性に鼓膜を毒され、やがて精神までも犯される。頭の中じゃ常に時任のピアノが鳴っている、目を閉じても開けても頭の中に演奏が流れ続け、日常に支障をきたす。
アルコールや薬物の禁断症状に似た猛烈な飢餓感に苦しめられ、残響の幻に縋り付く。
俺の精神は、知らないあいだに時任彼方に調教されていた。
もし世界に聞いただけで人を狂わす音楽があるなら、時任彼方の奏でるピアノがそれだ。アイツの演奏は凶器だ。睡眠薬のように処方量を守って摂取しないと身を滅ぼす類の。
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