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10話
「……何をしてるんだか」
寒いのを我慢して部屋を見上げたところで得られる物は何もない。
いい加減帰ろうと身を翻し、向こうからやってくる時任と恋人を見付ける。
その場にしゃがんで花壇に隠れる。
時任が連れているのはあの女学生だ。様子がおかしい。何か口論している。
「……どうして?ここまで来たのに」
「今日は気が乗らないんだ、出直してくれ」
「こないだもそう言ったじゃない。部屋に上げるのは嫌?」
「勘繰るなよ」
時任が面倒くさそうにあしらい、彼女が諦め悪く食い下がる。
「いいでしょ、時任くんのピアノ聞きたいのお願い」
「安売りはしてない」
「付き合ってるんだから変じゃないよね?」
灰色の目の温度が急低下し、ぴたり密着する彼女の肩を軽く押し返す。
「別れるか」
「え?」
半笑いの彼女の口から疑問がもれる。
「誰の為に弾くかは俺が決める。干渉されたくない」
「そんな……あの人には弾いてたじゃない」
「遥に会ったのか」
「あの人言ってたよ、時任くんのピアノめあてで通ってたって……友達なのに酷くない?ねえどうして部屋にいてれくれないの、私たち付き合ってるのに」
時任はウンザリと顔をしかめ彼女の手を振りほどく。力はさほど強くないが、不意を衝かれて尻餅付いた彼女の目が見るまに潤んでいく。ショックを受けた表情。
時任は手を貸しもせず、マンション共用のゴミ捨て場の前にへたりこんだ彼女を無視して入口へ赴く。
「おい」
さすがにどうかと思って腰を浮かす。ゴミ捨て場の不燃物置き場に捨てられた空き瓶を彼女が引っ掴み、地面に叩き付けるのは同時。
「待ってよ!」
鋭い断面をさらす瓶の切っ先を時任に向け、怒鳴る。
「どうして?好きって言ったらOKしてくれたのに」
「誰でもいいからそう言ったんだ」
「何それ……意味わかんない。私の事好きじゃないの?なんとも思ってないの?だから一回も部屋に上げてくんない訳。ずるいじゃないそんなの、あの人の事は何回も上げてピアノまで聴かせてるのに」
「アレは特別だ」
ジーンズのポケットに指をひっかけ、無防備に身をさらした時任が告げる。しらけた表情で、冷たい目で、一方的に最後通牒を突き付ける。
「私は時任くんの何?」
「穴埋めかな」
メフィストフェレスが残忍に微笑む。
夜闇を切り裂く甲高い奇声を上げ、空き瓶を構えた彼女が突っ込んでくる。
時任は動かない。
マンションの入り口を背に悠揚迫らぬ物腰で構え、恋人のヒステリーを観察している。
彼女の切っ先が狙っているのは、時任の手だ。腱が傷付いたらピアニスト生命が終わる。
反射的に身体が動く。
視界の端にチラ付く彼女の驚愕の相と時任の動揺、二人の間に割り込むように手を広げる。
「遥っ!!」
切迫した絶叫が耳を劈く。余裕をかなぐり捨てた声が時任のものだとは、最初気付かなかった。
右手に走る激痛。次いで瞼の裏が真っ赤に染まる。
「痛ッぐ、」
瓶の先端がざっくりてのひらの柔肉を切り付け、アスファルトに真っ赤な血が滴る。
全身の毛穴が開いて噴き出す脂汗とずれた眼鏡、歪んだ視界に棒立ちの人影を捉えて華奢な手を地面に捻じ伏せる。
「きゃあっ」
悲鳴に構わず締め上げる。緩んだ指から瓶がすりぬけ、アスファルトを滑っていく。
「遥、大丈夫か?なんでここに……手を怪我したのか」
「たいした事ない」
「あ……」
「しっかりしろ。聞いてるか」
血を見て正気に戻った女学生ががたがた震える。時任に助け起こされた俺は、努めて冷静な口調で半ば放心状態の彼女を宥めすかす。
「警察は呼ばない。ただの不注意が起こした事故だ、忘れろ」
「わ、わたわたし、なんてこと……」
「いいから。人が集まる前に帰ったほうがいい」
「時任くん……」
急かす俺から視線を切り、泣き崩れる寸前の滑稽な顔で、縋るように時任を仰ぐ。
時任は終始無言無表情だ。
短い間でも交際していた彼女への関心を一片残らず喪失し、沸騰する激情を封じた苦々しい声で吐き捨てる。
「二度と近付くな」
それが決定打だった。
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