11話

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11話

彼女が走り去ったあと、マンション前には俺と時任だけが残された。 「とりあえず部屋で手当てを」 右手の傷は思ったより深そうで、さっきから血が止まらない。時任がカードでスリットに入れてドアを開け、エレベーターで11階へ行く。 久しぶりに入る時任の部屋は、相変わらず殺風景なほど片付いていた。ドアを開けてリビングに入り、俺をソファーにおいてから救急箱をとってくる。 「手を見せろ。少ししみるぞ」 「っ」 「いわんこっちゃない」 時任が苦笑いする。 消毒液を含ませた脱脂綿で傷口を拭き浄め、不器用に包帯を巻いていく。至近距離に迫る、真剣な表情に目を奪われる。 自由自在にピアノを弾きこなすあの手が、たかだか包帯を巻くのに手間取っているのは不思議な光景だった。 「お前にもできないことあるんだな」 「人に包帯を巻くのは初めてだからしょうがないだろ」 「それもそうか」 「一応処置はしたが、あとでちゃんと病院に行け。パッと見縫わなくてよさそうだが素人判断を信用するな」 片手で俺の右手を持ち、片手でてのひらに包帯を巻き付ける。 なんだか狐に摘ままれた心地でまじまじ時任を見る。 コイツの焦った顔はレアだ。 時任にも人間らしい感情があったのか、と頭の片隅で妙に感心する。 「さっきの子は彼女か」 「ああ……まあな。もう終わったが」 「泊めるんじゃなかったのか」 「気が変わった」 「酷いヤツだな。こんな男に惚れるなんて見る目がない」 「憎まれ口は健在か。通報はいいのか?慰謝料はともかく治療費は請求してもばち当たらないぞ」 「警察沙汰は後々面倒くさいからごめんだ」 「傷害で立件できそうだがな」 「やけに落ち着いてるな。刃物を向けられるのは初めてじゃないのか」 時任が不敵に唇をねじる。 「厄介なファンやストーカーがいると待ち伏せや脅迫は日常茶飯事だ。示談で済めば楽なんだが」 「嫌な言葉だが、有名税ってヤツか」 「俺と俺のピアノを独り占めしたい、他のヤツに聞かせるなってナイフで襲ってきた女がいた。コンサート直後なんで警備員に取り押さえられたが、ヒヤヒヤしたよ」 住む世界がちがうと改めて痛感する。この手の体験を何度もしているなら落ち着き払った態度も頷ける。 時任が人間臭い表情を見せたのは、俺が刺された時だけだ。 「今度はこっちが質問、なんでマンションの前にいた。ストーカーか?」 「久しぶりにお前のピアノが聴きたくなった」 「ピアノだけか」 「ずっと頭の中で流れてるんだ、いい加減打ち止めにしたい。実物を聞いたら止まるんじゃないかって」 「バイト帰りに寄ったのか。ご苦労様」 切り付けられた手がズキズキ疼く。中間に微妙な沈黙が立ち込める。久しぶりに顔を合わせたせいか、少し気まずい。 結果的に時任を庇い助けた訳だが、手当てしてもらった礼を述べるべきだろうか。 「すまなかった」 耳を疑った。 あの時任がうなだれて、心からの謝罪を口にする。 「怪我のことなら気にするな。お前のせいじゃない……わけじゃないけど、終わった事を蒸し返したって意味ない」 「ああ……」 「さっきの少しグサッときたぞ」 「どれだ」 「『誰でもいいからそう言ったんだ』って、少し前までの自分を見てるみたいだったよ」 こんな時任、俺は知らない。 惨めで脆く弱々しく、すっかり自信を喪失している。 なんだか調子が狂い、ソファーに深くもたれて開放的な天井を仰ぐ。 「お前の言うとおりだよ。俺は勃たないんだ」 できるだけ、さりげなく告白する。 「彼女とうまくいかないのもそれが原因だ。せっかく好きって言ってもらって付き合っても、最後までできなくて駄目になる」 「そうなのか」 「本当のこと言い当てられてカッときた」 時任の悪ふざけはまだ許せない。 だからといって、ずっと遠ざけておけるほど潔癖じゃない。 認めるのは癪だが、俺は時任彼方の演奏で腑抜けにされてしまった。聴覚に効く麻薬のような演奏の虜と化し、一日たりとて忘れられない。 時任が珍しく遠慮がちに聞く。 「昔からなのか?」 「ああ。そのうち普通にできると思って、何人も付き合ってきた。いい所まで行くんだ。そこから続かない」 「そもそも抱きたい欲求はあるのか、好きでもないヤツに勃たないだろ」 「最初はぴんとこなくても、付き合ってからだんだん好きになる事あるだろ。俺は……正直にいうと、好きっていう感覚がわからないんだ。恋愛的な意味で誰かを好きになったりその子としたいと思ったり、一度もないんだよ。誰かを本当に好きになった経験がない。まだ出会ってないだけだって思い込もうとしてきたよ」 「ちがうのか」 目を瞑り深呼吸、無感動に告げる。 「アセクシャルって知ってるか。無性愛……他者に対して恋愛感情を抱かない人間のことだ。多分、俺もそれだ」 「医者に診せたのか」 「どこへ行けっていうんだ、精神科か?心と体どっちに異常があるんだよ。男も女も誰も好きになれない俺はおかしいんですか、結婚はおろか子供も作れず一生独りで過ごすんですか、なんとかしてください先生って縋ればいいのかよ」 刺々しい口調で噛み付いてから後悔、痛々しいほど白い包帯を巻いた右手と左手を組む。 「……思春期に入ってからその手の情報をあさった。一口にアセクシャルと言っても色々いる。普通に誰かを好きになるけどしたくないできない人間、誰も好きにならずできないしたくない人間……俺は後者だ。どんな子と付き合っても、その子がどんなに露骨なことをしても、全然ヤりたくならないんだ。身体が反応しない」 生まれて初めて他人に秘密を話す。 異常者扱いされるのが嫌で、こんな事だれにも相談できなかった。 アセクシャルの概念を知るまで、普通になりたくてもなれない疎外感と孤独感に日々苛まれ続けてきた。 自分がそれに該当するとは知らず、知った所でどうしようもなく、生まれ持った性質故に矯正は絶対不可能だ。 一生だれも好きにならない。 セックスもできない。 パートナーを喜ばすことはおろか、子供を作ることもできない。 「もともと結婚や子供に興味はない。幸か不幸か一人が苦にならないタイプだ。だけどな時任、自分の意志でそれを蹴るのと、最初から選択の権利が奪われてるのは全く別だよ」 もし俺が他者に愛情を抱ける人間だったら何か違ったのか。 セックスに及ぶのは不可能でも、誰かに愛情を持てる人間だったら家庭を築ける可能性があったのか。 狂おしく焦がれた、「普通」の仲間入りをはたすチャンスはあったのか。 「求めには応じる。望まれたら与える。ずっとそうやって生きてきた、そうする以外ほかなかった。俺自身が他人に何も望まず求めないなら受け身でいくしかないじゃないか、それがそんなに悪いことか、誰とでも寝れるお前やフツウにご立派な世間に嗤われなきゃいけないことなのか」 包帯を巻いた手の疼きに呼応し、思春期に自覚してから胸で育て続けた劣等感がジクジク膿む。 抱かれる時任に勃たなかった、抱く時任に勃たなかった、勃起に至らないまでも生理的な反応を示していい筈の身体にまで裏切られた。 「普通じゃない。おかしいんだきっと」 少しだけ彼女が羨ましい。 時任に刃を向けるほど愛していたのだ。 一途に、ひたむきに。 そんな感情、一度も駆り立てられたことないのに。 身体が心に依存する現実を認めたくない。機能的には問題ないのに、心なんて不確かなモノがセックスの邪魔をする。 「遥」 時任が限りなく優しく俺を呼ぶ。 愛情と勘違いしそうな声で。 「マスターベーションの経験はあるか」 唐突な質問に自嘲の笑みが浮かぶ。 「俺も一応男だからな。あるよ」 「ちゃんとできたのか」 「ああ……刺激すればちゃんと反応する、生理現象さ」 「何を想像しながらやった」 「何も。目を瞑ってひたすら手を動かすのに集中する、ただの作業で苦行だよ。普通なら好きな子の顔を思い浮かべてするんだろうな。芸能人でもいい、理想の異性を……同性を思い描いて」 一時期は真剣に悩んだ。勃たないのは機能に問題があるのではと疑って、自分で試したのだ。 人を好きになる感情がわからない。抱きたいという欲求もない。そのせいかわからないが、勃たせるのに時間がかかった割に得られた快感は少なかった。 「手伝ってもらった事は」 「話聞いてたか?言える訳ないだろ」 時任の距離が近い。俺の隣に座り、ズボン越しの太腿に片手をのせる。手がどんどん遡り、遂に付け根に達する。 「本気で怒るぞ」 「怖がるな。目を閉じてリラックスしろ。一人でするときは何を考えてるんだ」 「何も考えてない」 「本当か?」 メフィストフェレスが囁く。 「完全に頭をからっぽにするのは難しい。何も考えない為に何かしてるだろ」 太腿の手があやしく蠢いて、くすぐったさとこそばゆさが沸き上がる。 「……頭の中で音楽を流してる」 「俺のピアノ?」 「そうだ。お前の演奏をリピートで」 彼方の曲。彼方の指。俺の股間を掴む大きな手。何も考えないための口実、理性を本能に切り替えるトリガー、快楽を追い求める建前。 時任が、俺をおかしくした。どうしようもなく狂わせた。 この部屋を訪れるたび時任は誰かと寝ている、倒錯したセックスに溺れている。ある時は男に抱かれ、ある時は女を抱いて、ピアノの上で奔放な遊戯に耽る。 時任のセックスを見ても勃たないのに、その後アイツが弾くピアノをそばに立って聞いていると、どうしようもない昂りを押さえきれない。 瞼に焼き付いた光景が勝手に反芻され、身体に刷り込まれた感覚がぶり返し、股間にどんどん血が集まっていく。 「目を瞑れ遥。俺の手だけ感じてろ」 「離せ」 他人との接触に嫌悪感が膨らむ。時任の囁きに、コイツの声が孕む魔力に飼い馴らされ抵抗心が奪われていく。 「動くと傷に響く」 俺が右手を怪我して使えないのをいいことに、時任はねっとり股間を蹂躙する。ズボンの上からこねくり回して竿を摩擦、変化を報告する。 「気持ちいいか」 「……ッぐ」 「固くなってきたぞ」 キツく目を瞑って辱めに耐える。時任の手がもたらす混乱と腰の奥から沸き上がるモヤモヤした快感に翻弄される。 何をされてるんだ? 何をしてるんだ? 時任の目的は? 全部置き去りに目を閉じて快楽を貪るのに集中する、他人の手に身を委ねて快楽を追い求める、浅ましく息を弾ませて形だけ拒む。 「時任っ、よせ、も……」 「勃ってるじゃないか」 時任が嘲弄し、器用な手付きでジッパーを下ろしていく。 「頭の中で音楽を流しておけ」 俺のズボンの前を寛げ、下着を脱がしてペニスをさらす。 火照った手が直に敏感な部分を掴んで愛撫し、呻き声を漏らさないように下唇を噛み縛る。 「あっ、ぅっく、ァあ」 他人の手で感じさせられるのは初体験だ。 彼女に手や口でしてもらった時も反応しなかったのに、時任に蹂躙されていると思うと、下半身に熱が集まってくる。 時任の手。 ピアノを弾く優雅な手。 白と黒の鍵盤を支配する天才の手が、俺の一番卑しく浅ましい部分に奉仕している事実に倒錯的な興奮が燃え上がる。 「時任、もっ、許し、だすッ」 目を閉じたまま切れ切れに訴えるが、時任は少しも手を緩めず、かえってラストスパートに突入する。亀頭から根元へかけ強くしごきおろされた次の瞬間、俺は爆ぜた。 射精の快感は強烈だ。薄く目を開ければ、ぼやけた視界に時任がのしかかっている。俺が出した白濁に塗れた手。 「偉いな遥。たくさん出たじゃないか」 時任がティッシュで手を拭い、俺の頬を包んで褒めてくれる。 「……こんな……異常だ」 弱々しく首を振って否定するが、時任は恍惚と微笑んだまま、ファウストをたぶらかすメフィストフェレスの甘言を弄する。 「おかしくない。ちゃんと勃ったんだぞ、喜べよ。お前の身体は俺の手に欲情するんだ。俺ならお前を最高に気持ちよくしてやれる、何度だって絶頂にいかせてやれるんだ」 俺は音に欲情する変態だ。身も心も時任に調教されてしまった。 時任の音楽に耳から犯されて、条件反射さながらコイツの手に劣情する。 「もとめてない。マトモじゃない。ただ普通にできるようになりたいんだ」 射精直後の虚脱感と倦怠感にも増して、凄まじい自己嫌悪が募り行く。時任の手で無理矢理イかされてしまった屈辱と怒り、なのに否定できない圧倒的な快感。一人でやるよりずっと気持ちいい、彼女にされてきたことよりずっと気持ちいい、その事実を認めざるえない。 時任が俺のこめかみにキスをする。 「落ち着け遥、もっと割り切って考えろ。俺はお前が気持ちよくなる手伝いをしたい、お前は普通になりたい。じゃあいいじゃないか、俺の手なら問題なくイケるんだ。わかるか、反復練習だよ。ピアノだって基礎の繰り返しが大事だ、身体に条件反射を覚え込ませればいずれ他の子ともできるようになるかもしれない」 股間を揉まれている間拳を握り込んでいたせいで、真新しい包帯に血が滲みだす。 一点赤く染まる包帯を見て、彼方が痛そうな顔をする。 「傷が開いたな」 その日から、俺と時任の関係は決定的に壊れてしまった。
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