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5話
俺の努力が実る時が来た。
講義を終えた身体で取り巻きの誘いを断り遥をさがしにいく。アイツが昼食を食べる場所は決まっていた。食堂は混み合って落ち着かないからと、売店で買ったサンドイッチを中庭のベンチで食べるのだ。
放任されて育ったというわりに遥の食べ方は綺麗だ。咀嚼は十回、そして嚥下。アイツの横顔を観察してるうちに、メトロームの正確さで覚えてしまった。
ベンチに遥が座ってる。スマホにイヤホンをさして音楽を聴いてるらしい。すっきり伸びた背中へ気配を消して近付いていく。途中で様子がおかしいのに気付く。
遥は何か陶酔しきっていた。心ここにあらずといった調子で虚空を見詰める横顔の無防備さが虚を衝く。
端正な横顔に見とれる。
次いで驚く。眼鏡の弦が横切る、切れ上がったまなじりから透明な涙が滑り出たのだ。
俺としたことが、束の間言葉を失った。遥は見られているのに気付かない。完全に無防備な状態をさらけだし、心を裸にしている。
「何聴いてるんだ」
ある予感に突き動かされて片耳のイヤホンを奪い、自分の耳に嵌める。
予想通り、流れてきたのは俺の昔の演奏だ。ベートーヴェンの「熱情」第三楽章。
まだ粗削りな自分の演奏に苦笑い、悦に入ってひやかす。
「泣くほど感動したか」
「人のことを考えてない、独りよがりな演奏だな」
照れ隠しをかねてぶっきらぼうに吐き捨てる。涙を一粒零したまなじりはもう乾き、元の不機嫌な表情に返ってしまった。
人の為にピアノを弾いたことなど一度もないと断言する。
生まれてこのかたずっと、自分が気持ちよくなるためだけにピアノを弾いてきた。気持ちよくなくなればすぐやめる程度の思い入れしかなかった。
ピアノはただの道具、時任彼方の隷属物。愛着はあれど執着はない、そのはずだった。
俺が主でピアノは従、その絶対は覆らない。
負け惜しむ遥の態度に、ごくまれな気まぐれを引き起こす。
ベンチの背凭れに寛いで寄りかかり、意地っ張りな遥の耳元で得意げに囁く。
「部屋に来い。お前のために弾いてやる」
最高の殺し文句を完璧なタイミングで吹きこめば、遥の顔に逡巡の波紋が広がっていく。
あの時任彼方がたった一人のために弾く特別なピアノ。
そんなおいしい餌をチラ付かされ、即座に断れる人間がはたして何人いるだろうか。
なるほど、俺は独りよがりを極めている。ずばり本質を衝かれてますます気に入った。少なくとも飽きてどうでもよくなるまでは、コイツを手放したくない。
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