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8話
あれから遥はぱったり部屋に来なくなった。
大学でも避けられているのはわかっていたが、あえて深追いしなかった。
俺から追いかけたら意味がない。アイツに追いかけさせなきゃ駄目だ。
時任彼方はそんな事をしない。くだらないブランドイメージ。だが、絶対だ。
誰も彼もが俺を特別にしたがる。
「時任くんしばらく休んでたよね、どうしたんだろ」
「欧州コンサートだって」
「すげー、海外かよ」
「ニューヨークのなんとかホールでも公演したんでしょ?新聞で見たよ」
「講義休みまくってよく単位落とさねーよな」
「頭もいいんだよ、尊敬」
誰も彼もが褒めそやす。
「やっぱ俺たちとは次元がちがうよな」
「チケット完売だって~ネットでもとれなかったよ、5分前から待機してたのに悔しい」
「えー転売してない?」
「クラシックってよくわかんないけど彼方がすごいってのわかる、肌にビリビリくるもん」
俺は時任彼方だ。音楽界のメフィストフェレス、そんなこっぱずかしい名前で呼ばれている。誰も彼もが俺に時任彼方らしい振る舞いを求め、時任彼方であることを望む。
あせらずとも待てばいい、遥は必ずまたやってくる。麻薬中毒者が禁断症状に耐えかねてドラッグを求めるがごとく、アルコール依存症が酒を浴びるが如く、俺の演奏に恋い焦がれて自分から部屋を訪ねる。それまで好きに泳がせておけばいい、せいぜいじらして生殺しの苦しみを味あわせるのだ。
アイツは俺から離れられない。すっかり俺のピアノの虜だ。一日一日じっくり時間をかけてそう調教した、俺の演奏なしではいられないように躾けた。イヤホンなんかじゃ埋まらない、録音じゃ物足りない心の隙間を埋めに必ずまた足を運ぶ。
辱められた顔が瞼に浮かぶ。股間をまさぐった時の感触を手にまざまざ反芻する。
「時任くん、いま付き合ってる人いるの」
「フリーだよ」
「特に決まった人はいない感じ?じゃあ……どうかな、お試しで」
キャンパスの中庭に呼び出されて、どうでもいい女に告白された時も、頭の中ではピアノが鳴っていた。手軽な現実逃避だ。遥がいない毎日はとても退屈で張り合いがない。遠くに姿を見かけても無視される、手を振っても素通りだ。
「そうだな。悪くない」
「本当!?」
目の前の女がげんきんに喜ぶ。このあと友達にふれまわるのだろうな、と冷めた思考で考える。
「ずっと前から時任くんのファンだったの、動画の演奏聞いて感動で泣いちゃって……付き合えるなんて夢みたい、嬉しい……時任くんと釣りあうカノジョになれるようがんばるね」
当たり前だ。俺は時任彼方だ。俺の演奏には人の心を動かす力がある。
俺のピアノを聴いて泣いたと主張するファンに会うのは初めてじゃないが、その中で何故遥の泣き顔だけ鮮烈に焼き付いているのか。
アイツはきっと、俺なんかに涙を見せたくなかったはずだ。一人でただ静かに演奏を聴いて、たった一粒だけ涙をこぼした。処世術として鈍感に麻痺した心の水位が自然に上がり、その結果として一粒こぼれたような、どこまでも純粋な涙だった。
他の百万人に泣いたといわれるより、アイツ一人を泣かせたことが誇らしかった。
人のことを考えない独りよがりな演奏だと俺の本質を見抜いた遥が、その上で泣いてくれたアイツが愛しかった。
取り巻き上がりの女の子と交際をはじめても上の空だった。遥はなかなか強情だ。自然とアイツの姿を目で追うことが増え、他のヤツと話していようものなら胸の奥をチリチリひっかかれた。
俺の新しい恋人は、時任彼方の彼女のブランドを手に入れて有頂天だった。
付き合いだしてしばらく経った頃、「泊めてほしい」と頼まれて何も考えずオーケーした。遥じゃないならだれでもよかった。
はしゃぐ彼女と寄り添ってマンションへの夜道を歩く。遥がいない道のりはやけに遠く感じられた。隣の女がうるさく囀る。雑音が膨らむ。耐えがたい不協和音、度し難い不快感。なれなれしく腕を組んだ女がうっとり独りごちる。
「時任くんのピアノが聴けるなんて楽しみ」
彼女は悪くない。
脊髄反射で想像したのは、少し前まで遥の場所だったピアノの傍らに顔のない女が立って、安っぽい拍手をしている光景だった。
マンションの前まで来て気が変わった。
「悪いけど帰ってくれないか」
「……どうして?ここまで来たのに」
突然の翻意に女が愕然とする。
「今日は気が乗らないんだ、出直してくれ」
「こないだもそう言ったじゃない。部屋に上げるのは嫌?」
「勘繰るなよ」
「いいでしょ、時任くんのピアノ聞きたいのお願い」
遥の為に空けた場所に、他人が成り代わるのが我慢ならない。
「安売りはしてない」
「付き合ってるんだから変じゃないよね?」
潤んだ目で食い下がる女はどうでもいい。急速に心が冷めていく。
「別れるか」
「え?」
「誰の為に弾くかは俺が決める。干渉されたくない」
「そんな……あの人には弾いてたじゃない」
「遥に会ったのか」
「あの人言ってたよ、時任くんのピアノめあてで通ってたって……友達なのに酷くない?ねえどうして部屋にいてれくれないの、私たち付き合ってるのに」
彼女の口から遥の本音を聞かされても傷付かない。俺がいないところで俺に言及してくれた事実が嬉しかった。アイツの頭の中には俺がいる、俺のピアノが流れてる。きっと今でも一日中、離れていても支配している。
面倒くさい女を適当に巻いてマンションへ向かえば、背後で悲鳴が上がる。
「遥っ!!」
思わず叫ぶ。
俺の恋人だった女が割れた酒瓶を構えて突進、花壇から飛び出した遥が立ち塞がる。華奢な手を捻じ伏せて酒瓶を奪い、顔面蒼白の女を押し殺した声で促す。
「遥、大丈夫か?なんでここに……手を怪我したのか」
「たいした事ない」
「あ……」
「警察は呼ばない。ただの不注意が起こした事故だ、忘れろ」
遥の右手のひらはざっくり切れている。俺を庇ったせいだ。
アスファルトに滴る真っ赤な血に動揺し、激痛に脂汗を浮かべた遥を抱き起す。酒瓶の切っ先は俺の手を狙っていた。
こんな時まで遥はひどく冷静だった。相当痛いはずなのに泣き言はおろか呻き声も漏らさず、俯いて耐えている。
右手のひらの痛々しい傷口を庇って突っ伏す遥を支え、夜道に立ち尽くす女を威圧する。
「二度と近付くな」
女の目鼻立ちがぐにゃりと歪み、決壊する寸前に踵を返して去っていく。
言い過ぎだとは思わなかった。どうでもいい。遥に肩を貸してマンションに入り、エレベーターで部屋へと連れて行く。
「ッ……ぐ……」
「すぐ着く、我慢しろ。頭の中でメトロノームを数えてろ」
「無茶いうなって、本当音楽ばかだな」
上昇するエレベーターの中、肩を抱いて励ます。脂汗に塗れた顔で弱々しく苦笑いする遥が愛しくて、肩を抱く手を強める。
久しぶりに遥が部屋にきた。リビングのソファーに埃を被った救急箱を持参、不器用に手当てを施す。
誰かに包帯を巻くのは初めてだった。
俺の手に他人を癒すこともできるという当たり前の事実が、何故だか不思議でしょうがない。
物心付く頃から漠然とピアニストを志し、あるいは物心付く前からさだめられていた。
手はピアニストの命だから大事にしろと、親をはじめとする周囲に言われ続けてきたせいで擦り傷すら作らず、絆創膏を貼った経験もない。
この手がセックスを介さず誰かと触れ合えるなんて、想像もしてこなかった。
「お前にもできないことあるんだな」
遥が面白がる。
「人に包帯を巻くのは初めてだからしょうがないだろ」
俺は拗ねる。
「それもそうか」
「一応処置はしたが、あとでちゃんと病院に行け。パッと見縫わなくてよさそうだが素人判断を信用するな」
「さっきの子は彼女か」
「ああ……まあな。もう終わったが」
しばらくどうでもいいことを話す。初夏に会ってから数ヶ月、遥が部屋に来た事は何度もあるが、お互いソファーに座って話すのは初めてだ。コイツはソファーに掛けて演奏を聴くのを是とせず、必ずピアノの傍らに立ち続けた。
それが時任彼方の演奏を聴く者の義務であるかのように。そして演奏が終わればさっさと帰ってしまうのだ。
ずっと引き止める口実をさがしていた。ピアノより近くに来てほしかった。
俺の遥。
可愛いメフィストフェレス。
「アセクシャルって知ってるか。無性愛……他者に対して恋愛感情を抱かない人間のことだ。多分、俺もそれだ」
遥の口から告白された時、どう返せばいいかわからなかった。仕方なく無難な回答をする。
「医者に診せたのか」
「どこへ行けっていうんだ、精神科か?心と体どっちに異常があるんだよ。男も女も誰も好きになれない俺はおかしいんですか、結婚はおろか子供も作れず一生独りで過ごすんですか、なんとかしてください先生って縋ればいいのかよ」
俺は何もわかっちゃいなかった。遥の苦悩の深さや孤独も、今まで耐えてきた疎外感すら本当の意味では理解していなかった。
俺の性的嗜好を分類するならバイセクシャルだ。
男でも女でも奔放に関係を結ぶし、セックスは最高の娯楽と定義している。遥はアセクシャルと自己申告する。両者の溝がどれほど深いか、この時は何もわかっちゃいなかった。
「……思春期に入ってからその手の情報をあさった。一口にアセクシャルと言っても色々いる。普通に誰かを好きになるけどしたくないできない人間、誰も好きにならずできないしたくない人間……俺は後者だ。どんな子と付き合っても、その子がどんなに露骨なことをしても、全然ヤりたくならないんだ。身体が反応しない」
俯き加減に訥々と語る遥。横顔に苦悩の翳りがさす。
友人が本気で悩んで秘密を打ち明けてくれたのに、その顔に欲情していたのだから手に負えない。
同情より劣情を。
愛情より欲情を。
くだらない世の中の輪をかけてくだらない常識に固執するこの顔が、歪むところが見たい。
俺の手で歪ませたい。
「もともと結婚や子供に興味はない。幸か不幸か一人が苦にならないタイプだ。だけどな時任、自分の意志でそれを蹴るのと、最初から選択の権利が奪われてるのは全く別だよ」
めちゃくちゃにしたい。
ぐちゃぐちゃにしたい。
お前の顔が歪むところをもっと見たい。
「求めには応じる。望まれたら与える。ずっとそうやって生きてきた、そうする以外ほかなかった。俺自身が他人に何も望まず求めないなら受け身でいくしかないじゃないか、それがそんなに悪いことか、誰とでも寝れるお前やフツウにご立派な世間に嗤われなきゃいけないことなのか」
遥は器用に見えて不器用だ、上手くやってるようで全然やれてない。
コイツは潔癖すぎてマジョリティに属せないことを罪悪のように考えている。
アセクシャルならアセクシャルでそれを認めて好きに生きればいい、自分を肯定して好きに生きればいい。後ろめたく思う必要なんて全くないのに。
「普通じゃない。おかしいんだきっと」
せっかく巻いてやった包帯が力の入れすぎで赤く染まる。
普通になりたがるくせに同じ磁力で特別に憧れる遥。
ただ一人秘密を打ち明けられた恍惚感に酔い痴れ、念願叶って弱みを掴んだ優越感に酔いしれ、生真面目な遥が不憫で、ままならなさがもどかしくて、俺は囁く。
「遥、マスターベーションの経験はあるか」
遥がぎょっとする。当たり前だ。
「俺も一応男だからな。あるよ」
「ちゃんとできたのか」
「ああ……刺激すればちゃんと反応する、生理現象さ」
「何を想像しながらやった」
「何も。目を瞑ってひたすら手を動かすのに集中する、ただの作業で苦行だよ。普通なら好きな子の顔を思い浮かべてするんだろうな。芸能人でもいい、理想の異性を……同性を思い描いて」
「手伝ってもらった事は」
「話聞いてたか?言える訳ないだろ、本気で怒るぞ」
「怖がるな。目を閉じてリラックスしろ。一人でするときは何を考えてるんだ」
「何も考えてない」
「本当か?」
メフィストフェレスに囁く。
「完全に頭をからっぽにするのは難しい。何も考えない為に何かしてるだろ」
遥の太腿にそっと手をおき、徐徐に付け根へと移していく。
とうとう遥は白状した。
「……頭の中で音楽を流してる」
言質をとった。叫び出したいほどの歓喜。俺の調教は実を結んだ、斑鳩遥は音に欲情する変態に堕とされた。
「目を瞑れ遥。俺の手だけ感じてろ」
「離せ」
「動くと傷に響く」
利き手が使えないのをいいことに遥を蹂躙する。ねっとり股間を捏ね回してズボン越しに摩擦すれば、切なげに眉間を歪め、次第に息を荒げていく。艶っぽい表情の変化に生唾を飲む。俺だけが知ってる斑鳩遥、本当の遥。
「気持ちいいか」
「……ッぐ」
「固くなってきたぞ」
「時任っ、よせ、も……」
「勃ってるじゃないか」
眼鏡の奥でぎりぎり眇めた目に苦痛と快楽が瞬く。額に滲む脂汗が髪の毛を濡らす。奉仕の継続を拒む片手の抵抗は弱々しすぎて、ねだっているようにしか見えない。
「頭の中で音楽を流しておけ」
お前の潔癖な顔を歪めたい。
ズボンの前を寛げ、下着を脱がしてペニスをさらす。
「あっ、ぅっく、ァあ」
遥。俺の遥。可哀想で可愛いお前。
潔癖な顔を羞恥と快楽に染めて喘ぐ、俺の手と幻聴に振り回されて悪あがく、眉間に寄る皺も仰け反る咽喉もズレた眼鏡も全てが愛おしい、愛おしすぎて壊してやりたい。手が離せないのが残念だ、ピアノを弾いてやりたいのに。
理性の箍がいともたやすく弾け飛び、遥自身を手掴みでしごく。
「もっ、許せ、だす」
遥が呻いてぱたぱたと白濁が散る。淡白な顔に似合わず濃い精液……相当たまってたのか。
「偉いな遥。たくさん出たじゃないか」
汗でしっとり湿った頬を手で包んで褒めてやる。
遥は呆然としていた。目は虚ろで身体は弛緩、自分の身体に裏切られた絶望の表情。
「……こんな……異常だ」
「おかしくない。ちゃんと勃ったんだぞ、喜べよ。お前の身体は俺の手に欲情するんだ。俺ならお前を最高に気持ちよくしてやれる、何度だって絶頂にいかせてやれるんだ」
身体の変化を持て余して途方に暮れる遥に接近、頭の中でメトロノームを鳴らして暗示をかける。
「落ち着け遥、もっと割り切って考えろ。俺はお前が気持ちよくなる手伝いをしたい、お前は普通になりたい。じゃあいいじゃないか、俺の手なら問題なくイケるんだ。わかるか、反復練習だよ。ピアノだって基礎の繰り返しが大事だ、身体に条件反射を覚え込ませればいずれ他の子ともできるようになるかもしれない」
大嘘だ。
遥はだれにも渡さない。
俺だけの物だ。
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