5話

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5話

エレベーターがベルの音をたてて停止、静かにドアが開く。 11階に到着、ドアを開ける。 時任の実家は裕福だ。このフロアはピアノの練習用と居住用を兼ねている。時任の両親から預かった合鍵を使ってドアを開け、室内へ入る。 玄関は薄暗くがらんとしている。インテリアは全て持ち出されたあとだ。時任の遺族はまだこの部屋を引き払ってない。 理由は明白、「アレ」があるからだ。 モルグのようにひんやりした空気が漂っているのは、ここが一種の保管庫だからだろうか。 時任の部屋は洋式だから、玄関で靴を脱ぐ必要がない。土足でフローリングを踏んでリビングへ抜けると、巨大なグランドピアノが中心に鎮座している。 黒い光沢帯びた荘厳なフォルム。持ち主が世を去っても変わらずそこに在る存在感。 「久しぶり」 なんとなくピアノに声をかける。 無機物と久闊を叙するなんて、意図せず感傷的になっているのだろうか。 事前の想像に反し、床には鑑識の検証を示す白線が引かれてない。 推理小説の読みすぎを恥じたものの、考えてみれば当たり前だ。時任はバスルームで死んだのだ。もしこれが殺人事件なら、ピアノから犯人の指紋が検出されるかもしれない。そうすれば時任の自殺に寄せる大衆の関心も、もう少し長持ちしたかもしれない。 不特定多数の恋人を部屋に上げ、倒錯したセックスに溺れた時任。 ピアノの上で抱かれた話を聞かされた時はどんな顔をすべきか迷ったものだ。アイツは俺をからかって反応を見るのを楽しんでいた。 結論から言うと、時任はとんでもない性悪だった。 あの日から時任はなにかと俺に付き纏い、ちょっかいをかけるようになった。 教室でも食堂でも図書館でも、アイツは俺の隣に座る。こっちが無視しようがまるで気にせず、嫌味も受け流して追ってくる。 「何がしたいんだお前は」 「友達になりたい、なんてこっぱずかしいセリフを言わせたいのか」 「俺と?友達に?利益がないだろ」 「利益の有無で友達を選ぶのか?変わってるな遥は」 「お前のまわりにいる連中にならったまでさ」 「アレは友達じゃない」 「じゃあなんだ」 「俺のファンかな。彼らは好きで尽くしてくれるんだ、期待を裏切る振る舞いはできないだろ」 「女の子に缶コーヒーを買わせて、挙句捨てに行かせた男が偉そうに」 「喉が渇いたって呟いたら拡大解釈されたのさ」 時任は万事この調子だ。話していると徒労感が募り行く。 一体俺の何がそこまで気に入ったのか皆目不明だ。 内心辟易していた。時任が俺に構いだしたせいで、ほっとかれたファンの僻みの矛先がこちらに向く。時任のファンは大学で一派閥を形成しており、男女とりまぜて数十人いたからとても困った。 最初はささいなことだった。 すれ違いざまわざと肩をあてられたり足をひっかけられる程度なら可愛いもので、ゼミの連絡網で俺だけ抜かされることもあった。 「どうしたんだその染み」 「コーヒーを零した」 「なんだ、案外間抜けだな」 時任は人の気も知らず笑い、濡らしたハンカチでシャツの裾を染み抜きしながら、俺はますます不機嫌になる。 俺の服にコーヒーをかけたのは、時任が以前遊んで捨てた女の子だったが、恨み言をいうのはやめにした。自分が惨めになるだけだ。 「見せてみろ」 時任が俺のシャツを掴んでじっくり見る。長い睫毛に沈んだ双眸は神秘的な灰色。確か北欧系のクォーターだと聞いた。白皙の肌と均整とれた長身はどこにいても目を引く。 モノトーンを基調にしたファッションは洗練され、モデルのような雰囲気を纏っていた。 だがなにより印象的なのは、手だ。 先入観に縛られがちだが、ピアニストの手は華奢ではない。毎日固い鍵盤を叩いてるのだから、どうしたって太く固くなる。 現に俺のシャツを掴む手は長く節くれて、逞しい靭やかさを備えていた。 努力なんてしたことなさそうなノーブルな美貌を裏切り、日々の研鑽の成果とプライドで鎧われた手。指先に冠した爪のカタチすら端正で、鍵盤を傷付けないように切り整えられている。 「この程度気にするな、斬新な模様と思えばなかなかイケる」 「参考にならないアドバイスどうも」 自分でいうのもなんだが、俺は至って地味な容姿だ。 和風の一重瞼に無個性な銀縁眼鏡、170センチの細身ときて、時任と並ぶと引き立て役にしかならない。 俺自身は時任を露骨に迷惑がっていたが、周囲はそうは思わない。人気者を独り占めする勘違い野郎と後ろ指をさされる。 その突出した容姿と才能に皆が熱狂し、誰も彼もが振り向かせたいと執着する時任をひそかに嫌っている事実がばれたら、身の程知らずと罵られ、さらに複雑な立場に追い込まれる。 いずれにせよ、俺の望む平穏な大学生活には終止符が打たれる。 彼方は周囲の反応と俺がおかれた立場を比べ、愉快犯さながら面白がっている節があった。なんとも美しく傍迷惑な疫病神だ。
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