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7話
時任の演奏を聴く気になったのは、ほんの出来心だ。
講義が休講になってたまたま時間が空いた。芝生を刈り込んだ中庭、通路の端のベンチに座る。
購買のサンドイッチと野菜ジュースを膝におき、『時任彼方 ピアノ 演奏』とスマホに打ち込み、動画サイトを検索する。瞬く間に何本も動画がヒットした。どれから聞こうか迷ってスクロールしていると、『ベート―ヴェン 熱情』の文字列が目にとびこんでくる。
時任彼方は何を考えているのかわからない。俺にストーカーまがいのまねをする動機も不明だ。
天敵を知るには相手の一番好きなものを知るのがてっとりばやい。
スマホにイヤホンをさし先端を耳に嵌め込む。若干の好奇心と反発から動画をタッチ、演奏を再生する。
ステージ上にはスーツに着替えた時任がいて、優美なフォルムのグランドピアノと向き合っていた。
弾く前から手に視線が吸い寄せられる。
時任の手は女体を愛撫するようにピアノに触れていた。
透徹した静寂を従え、整然と並ぶ黒白の鍵盤を傅かせ、寛いだ表情でピアノを弾きだす彼方。
最初の一音で衝撃を受けた。
自分が息を止めているのさえ忘れていた。
クラシックのピアノ曲はそれなりに聞いてきた。現代ピアニストの演奏を聞くのは初めてだ。動画サイトのアーカイブに保管されていた数年前の映像……この時彼方は高校生だ。
天才は実在する。
時任の弾く熱情はエキセントリックで、豊饒な叙情を波打ち広げ、俺の心の奥底に直に響く。
凄まじい演奏だった。ただの音の連なりが、物理的なプレッシャーさえ備えているような錯覚を抱く。ステージ上で孤高の演奏を続ける時任は、完全に他を圧倒していた。会場中が時任に注目し、彼が生み出す美しい旋律に聞き入っている。
音楽界のメフィストフェレス、時任彼方による『熱情』と、動画のキャプションに解説が付されていた。
スマホを支える手と全身から力が抜けていく。脇においたサンドイッチの存在も忘れていた。
世界に俺と音しか存在しないような、時任と俺だけしかいないような……ピアノを介して交感する濃密なひととき。
後ろに気配が忍び寄る。
「何聴いてるんだ」
目尻から一滴こぼれた水を人さし指がすくい、すかさずイヤホンの片方を奪って自分の耳に入れる。彼方だ。
神出鬼没のメフィストフェレスは、スマホに流れる動画と放心状態から返り咲くのが遅れた俺とを見比べて勝ち誇る。
「泣くほど感動したか」
「人のことを考えてない、独りよがりな演奏だな」
涙を見られた羞恥も手伝い、咄嗟に憎まれ口を叩く。ベンチの背凭れに両手をかけた時任は、自分の片耳にイヤホンをねじこんだまま、からかうような声音で囁く。
「可愛いな、遥は」
腹が立って腰を上げれば、「まあ待て」と腕を掴んで引き戻される。
「どうして俺の演奏を聴いてたんだ。少しは興味がでたのか」
「アレだけうるさく前フリされたらいやでも気になる」
負け惜しみを呟いてサンドイッチのビニールを剥がす。ようやくイヤホンを抜いた時任が、俺の顔の横で提案する。
「生で聞きたくないか」
不意打ちに手が止まる。すかさず時任が手をのばし、まだ一口しか齧ってないハムサンドをさらっていく。
「おい返せ俺の昼飯」
「鑑賞代だよ、ハムサンド一個で演奏一回なら安いもんだろ」
「聴きたいなんて一言も言ってないぞ、勝手に決めるな」
「動画の再生で満足か?本物はこんな物じゃない」
この程度に思われるのは心外だと、ハムサンドを咀嚼後に嚥下した顔が物語る。
正直、時任の誘いは魅力的だった。本人の言動には興ざめだが、ピアノの腕前は認めざるえない。心はまだ衝撃冷めやらず余韻に震えている。
俺自身知らなかった、自分の内に在るのも知らなかった熱情を揺り起こすかのような演奏。
あれを生で聴けるなら……
「部屋に来い。お前のために弾いてやる」
魂を質に入れ、取引をもちかけるメフィストフェレス。
時任の部屋に通い始めたのは、詰まるところ誘惑に負けたからだ。
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