8話

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8話

リビングをぬけて時任の死体発見現場となったバスルームに行く。当然ながら自殺の痕跡は抹消され、バスタブやタイルは乾いている。 白く清潔な空間を見回し、バスタブのふちに腰かける。 時任のマンションで、シャワーを借りた事が一回だけある。 目を閉じて時任の死体発見時の様子と、彼を見かけた女性の反応を想像する。スライドドアを開けてバスルームを覗いた女性はさぞ驚いたに違いない。時任は湯を満たした浴槽に上半身を突っ込み、タイルには瓶と錠剤が転がっていたらしい。 「ピアノに突っ伏して死んでれば劇的だったのにな」 乾いた感慨を抱く。 バスルームを死に場所に選んだ事は少し意外だが、反面アイツらしいと言える。時任はピアノとの心中を是としなかった。 吐瀉物、あるいは血でピアノを汚すのを避けたとは思わない。アイツにそんな繊細さは皆無だ。目撃者が断言する。 時任に誘われ、アイツの自宅マンションを訪れた俺は、その広さに驚いた。 「居住スペース兼ピアノの練習用だ。防音設備は完璧だから多少騒いでも音は漏れない」 「大学から独り暮らしを?」 「実家は神戸だ。帰るのも面倒でな……一人のほうが何かと都合がいい」 「坊ボンなんだな。飯はどうしてる?殆ど外食か」 「まあな」 部屋の主役はピアノだった。居住スペースと分け隔てられたリビングを、グランドピアノが占領している光景はなかなか壮観だった。時任はピアノの演奏と愛人を悦ばす以外でほぼ手を使わない、自炊とも無縁な生活だった。 「お前は?奈良には帰ってるのか」 「いや……あんまり反りが合わないんだ」 時任が先を促すように振り返る。隠し立てることでもないかとため息、プライベートを打ち明ける。 「よくある話だよ。子供の頃に両親が別れてな……親父は再婚している。相手はよくしてくれるが、かえって気詰まりなんだ。親父は親父で負い目があるのか、微妙な距離感ができて居心地が悪い」 子供時代の出来事で覚えているのは、両親に殆ど会話がなかったことだけだ。親は俺に無関心で、いわゆる放任主義だった。彼らの夫婦関係は妥協と不干渉で成り立っていた。馴れ初めは知らないが、お互い好き合って結婚したとは思いにくい。 「ウチの親とは大違いだな。過干渉でまいってる」 「一人息子が心配なんだろ、大目に見てやれ」 この頃には大分時任への警戒心がとけていた。傍迷惑なヤツだが、話してみると意外と物知りで面白い。趣味でかじった心理学にも精通し、一緒にレポートをやると捗った。 「ちょくちょく休んで単位は大丈夫なのか?ただでさえとってもない講義に浮気してるのに」 「おかげ様で要領よくやれてる。落ちても別に問題ないしな」 時任はピアニストとして生きていく将来を決めている。コイツが歩む道には輝かしい栄光が約束されている。本人の言葉通り、大学は本道をそれた趣味でしかない。 時任には何も怖いものがない、少なくとも俺にはそう見えた。コイツは無敵で全能だ。優れた容姿と才能を生まれ持ち、将来の成功が予め約束されている男。対して俺はどうあがいても秀才どまりの凡人、時任の引き立て役にならざるえない。 心理学を学ぶのは子供の頃から苛まれていた周囲との違和感に折り合いを付けるため。卒業後は専攻を生かした職に就きたいと漠然と考えている。 そんな俺の人生は、時任の目にはさぞ退屈に映るだろう。 時任はたびたび俺を部屋に呼び、俺はそれにこたえた。 バイトや先約がある日は別として、時任が俺のためだけに弾くピアノを聞きに行った。誘いを蹴るには時任の演奏は素晴らしすぎた。 ある批評家が言っていた、時任彼方の演奏は聴く麻薬だと。非常に中毒性が高いと。 動画サイトの再生回数は数百万を突破している。現代ピアニストのクラシック曲としては異例だ。ルックスによるところも大きいが、それ以上にコイツの演奏には人を惹き付ける何かがあった。 その何かの本質を知りたくて。 否、既にしてその何かに取り込まれて、時任の部屋に通い詰めた。 その日はバイトで少し遅くなった。時任にはメールで時刻を伝えてある。彼はドアの鍵を閉めず、俺を通すスタイルだった。 「入るぞ」 こちらもいちいちピンポンは押さない、時任が嫌うからだ。時任の部屋には時任が認めた人間しか入れない。ピンポンを押す行為自体が部外者の表明だ。そもそもマンションのセキュリティが厳重なので、郵便物や宅配便は管理人が預かる規則になっている。 施錠されてないドアを開けて靴のまま上がると、リビングで物音がした。時任と他の誰かの気配……人がいるとは聞いてない。不審におもってドアの嵌め込みガラスを覗き、愕然と立ち竦む。 時任がピアノの前で男に抱かれていた。 「あっ……ふ」 「っ、すごい締まる……気持ちいいか彼方?」 「ああ、あっ、そこ、すごくいい……おかしくなりそうだ」 リビングの中央、グランドピアノ前の椅子に見知らぬ男が座り、上に跨った時任を犯している。時任は切なそうに喘ぎ、身動きのたび背中がピアノの蓋を叩く。男の首に腕を回し、目も虚ろな淫蕩な表情で快楽をねだる。 「こんな姿、ファンやマスコミには見せられない、なっ」 「リベンジポルノはよせよ、炎上する」 「ピアノの上で抱かれるのが好きなのかよ、変態め」 「こっちの方が興奮するだろ」 ピアニストは世間と寝る。時任も例外に漏れず。 初めて目撃する光景にさすがにたじろぐ。時任が性別問わず奔放な性交渉を持っているのは知っていた、大学でも噂になってる。相手は見たことない顔だ。おそらく大学外の恋人……もっと即物的な表現ならセックスフレンドだ。 「あっ、あっ、あァっ」 俺が見たことない顔で時任が喘ぐ、乱れる、俺の知らない男の上で絶頂する。長く逞しい指が宙を泳ぎ、膝までずりおちたズボンが…… 見てはいけないものを見てしまった後ろめたさに駆られ、倒錯した痴態から目を背ける。踵を返しかけ、ドアのガラス越しに視線が絡む。 呆けて立ち尽くす俺の視線を絡め取り、時任は淫らに微笑んだ。 確信犯だ。 「誰だ!?」 ガタンと音が鳴る。あとじさった拍子に、横のスリッパ立てに躓いたのだ。 「友達だよ。まざるか」 「時任!」 苛立たしげに声を荒げれば、気まずくなった男が素早く服を身に付けて出て行く。 「またメールするわ」 彼方はだらしなくピアノにもたれたまま男を送り出す。上半身は裸、下半身はジーンズだけだ。開け放たれたドアの向こうで悪びれず待ち受ける悪友に、今度という今度は心底あきれ返る。 「9時には行くってメールしたろ」 「生憎取り込み中でな」 「嘘吐け」 前もってタイミングを調整し、わざと見せたに決まってる。 彼方と見知らぬ男のセックスに巻き込まれた不快感も露わに、床に落ちたワイシャツを投げ付ける。 「露出狂かよ、早く上を着ろ」 言われるがままシャツに腕を通す時任。大股にピアノに歩み寄ると、体液の入り混じった生臭い匂いが鼻を突く。上蓋には白濁が滴っている。 「誰だあれ」 「よく行く店で知り合った。名前は」 「どうでもいい」 「そっちが聞いたくせに」 「人を呼び付けておきながらヤッてるところを見せ付けるって、性倒錯の極みだぞ?お前の人格が破綻してることには初対面で気付いていたが、少しは反省したらどうだ」 「男同士のセックスに初めて立ち会ったにしては冷静だな」 時任の嘲弄に心かき乱れ、毒々しい口調で切り返す。 「女役なのか」 「どっちもイケる。今日はたまたま抱かれたい気分だった」 「ピアノの上で……汚したらどうするんだ」 「こんなのはただの道具だ。大事なのは弾く人間」 反省の素振りなく堂々と開き直り、相棒にするみたいにピアノの蓋を平手で叩く。 説教は時間の無駄だ。 ポケットからティッシュを出し、時任のものだかあの男のものだか、蓋にこぼれた体液を素早く拭いとる。 何故だか俺は時任の行為そのものよりも、ピアノが汚れている事実が我慢ならなかった。 それを冷めた眼差しで見守り、いっそ感心した口ぶりで独りごちる時任。 「本当にピアノ以外興味がないんだな」 ピアノが取り持った腐れ縁。時任は俺のためにピアノを弾き、俺はただそれを聞く。感想を求められれば感じたままを答え、そしてあっさり去っていく。 ティッシュを握り潰してゴミ箱に投げ込み、時任に向き直る。 「なんで見せた」 「どんな顔するか知りたくて」 「羞恥心がないのか?性的嗜好はどうでもいい、男でも女でも好きに遊べばいい、けれど関係ない俺まで巻き込むなよ」 抑えた抗議を平然と聞き流し、服を着た彼方がピアノの蓋を押し上げる。 「機嫌を直せ。聴いてくだろ」 時任は俺の手懐け方を心得ていた。しなやかな両手が鍵盤の上で踊り、室内を演奏が満たし始める。 コイツがどんなに非常識な振る舞いをし、俺の神経をこれでもかと逆なでしたところで、一曲弾き終える頃にはすっかり情緒の安定を取り戻す。自作自演の自傷行為とカウンセリングの悪循環。 時任の情事の現場に居合わせる事はその後もたびたびあった。 相手は女の時もあれば男の時もあった。時任がピアノに手を付かせた女を後ろから犯している所や、ピアノの蓋に乗り上げてフェラチオされている所をさんざん見せ付けられた。 嫌なら帰ればいい、来なければいい。 時任に呼び付けられ、彼のセックスに無理矢理立ち会わされながらも部屋に通うのをやめなかったのは何故なのか。不健全な共依存に陥っていたのか。 リビングのドアを隔てた廊下に立ち尽くし、ピアノの上で男に抱かれ、女を抱く時任を盗み見る。 行為の最中に目が合うたび時任は嫣然と微笑み、指一本動かせずにいる俺を挑発した。 「あっぁ、ぁっあ、彼方そこォ、イイっィくっ」 今日もリビングで時任がセックスに溺れている。 嬌声を上げて悦ぶ女をピアノの蓋に座らせ、鍛え抜いた指の技巧で絶頂へと至らしめる。 息を詰めて気配を殺し、ドアのガラス越しに繰り広げられる、時任と見知らぬ女のセックスを観察する。 なんでここにいるのか。何がしたいのか。わからない、わかりたくない。そんなに時任のピアノが聞きたいのか、まるで麻薬じゃないか。動画では足りない、生で聴きたい。時任の演奏さえ聞けるなら何時間でも待ってやる…… 「ぁあっ、ぁーーっ!」 一際高い声を上げて女が果てる。ぐったりピアノに突っ伏した女を放置し、上半身裸の時任がリビングを出る。 「なんだいたのか」 「よくいう。気付いてたろ」 「さあな」 ペットボトルのミネラルウォーターを呷る。時任の裸には彫刻のような筋肉が映えていた。 「出直した方がいいか。あれじゃ身支度に時間がかかるだろ」 「いや。すぐ追い出す」 一度寝た人間に時任は驚くほど薄情だ。性別問わず不特定多数と関係を持っているが、恋人と呼べる存在は今の所いないらしい。 なんだかひどく所在ない。面白がるような視線を避けて俯き、玄関へと戻りかける。 「やっぱり今日は……」 時任の手が伸びてきた。 「ッ!?」 突然股間をまさぐられる。 「勃ってないな」 「ふざけるな!!」 怒号と共に手をふりほどく。 リビングでばてていた女が「誰かいるの」と気色ばむ。手を引っ込めた時任が笑って謝罪する。 「怒るなよ、あんまり平然としてるから試したくなったんだ」 「覗きで興奮するわけないだろ」 「不能なのか?」 侮辱を受けて耳たぶまで赤くなる。 「お前と別れた女たちが言っていた。大事な時に勃たなかったんだろ」 殴ろうとした。 できなかった。 代わりに屈辱に震える拳を握り込み、怒りに煮え滾る声を絞り出す。 「……ほっといてくれ」 「待てよ」 踵を返して立ち去れば、時任が追ってきて肩を掴む。 「からかったのは謝る。例の噂を聞いて、本当かどうか気になったんだ」 「だったら直接聞けよ、なんでわざわざ見せ付けるようなまねしたんだ。お前が男や女と手あたり次第にしてるところを見て、ちゃんと勃ったら満足なのか」 「気付いてないのか遥」 「何をだよ」 「俺の演奏を聞いてるとき自分がどんな顔してるか」 時任が俺の顔を手挟んで急接近、まっすぐに目をのぞきこむ。 「すごくそそる顔だよ」 壁際に追い詰められる。時任の言葉を理性が拒む。コイツは一体何を言ってるんだ…… 人間を堕落へ誘うメフィストフェレスの眼差し。 時任の手をふりほどいて部屋を出る。背後で時任が何か言うが無視をして、ひたすら歩く。
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