2929人が本棚に入れています
本棚に追加
/47ページ
和ぐ《なぐ》
〈浅見先生編〉
両手を広げ、ドリブルコースを塞ぐ。
体育館の床を走り回る複数の足音。キュ、キュ、と靴底の音が鳴る。生徒の歓声は、それをかき消すほど大きかった。
ボールを持った倉知先生と目が合った。このときだけ、バスケをしているときだけは、彼の目に闘志が宿る。
腰を落とし、左右にボールを振る。その動きに合わせ、手を出した。瞬間、素早いロールターンでかわされ、よろめいた。体勢を立て直して振り向くと、ゴールに向かって跳躍する背中。
ガン、とリングが音を立てる。
芸術的なワンハンドのダンクに、オーディエンスがドッと沸く。いや、ドッというよりも、キャーが正しい。女子がキャアキャア騒いでいる。
倉知せんせーという黄色い声に、頭を下げ、控えめに手を振って応える姿が、また彼女たちのキャーに拍車をかける。
倉知先生のファンは、年々増えていく。男女学年問わず人気だ。昼休みはサッカーや野球のみならず、トランプや将棋に誘われたり、校庭の花壇の手入れをする生徒に紛れていたりもする。
勉強を見てやったり、進路の相談にのったり、放課後も休む暇がない。
あらゆるタイプの生徒から信用され、好かれている。必要とされれば断らないので、とにかく忙しい。
放課後、席にいないと思ったら、美術部でデッサンのモデルをやらされていると聞いて、思わず訊き返した。
「ヌード?」
「やめてよもう、浅見先生たら、そんなわけないじゃないの」
西村先生が俺の腹を両方のこぶしで乱打してくる。その動きが止まったと思ったら、真剣な顔で「そんなわけないよね?」と俺の胸倉をつかんだ。
生徒たちが頼めば、奴は脱ぐ。かもしれない。
不安になった俺たちは、美術室に向かった。教室の後ろのドアに隙間を開け、覗き込む。
椅子に座った美術部員たちが、倉知先生を囲んでいる。円の真ん中に立たされた倉知先生は、スーツの上着を脱いで、それを肩にかけ、左手をポケットに入れたポーズをとらされている。スーツ売り場にあるマネキンのようだ。
「ヌードじゃなかった」
一緒に隙間を覗いていた西村先生が、ホーッと安堵の息をつく。
そりゃそうだ。いくらお人よしでも裸になるわけがない。
「ちょっと見て、あの顔」
西村先生が潜めた声で言った。緊張と、羞恥が入り混じった表情。どこを見ていいのかわからない様子で、目が泳いでいる。
イーゼル越しに注目されて居心地が悪そうだ。
「可愛いね」
クスクスする西村先生につられて、ふっと笑いが漏れた。
確かに、可愛い。健気にがんばっている姿には心を打たれる。
だが倉知先生は、「いい先生」すぎる。
「生徒ファーストなのは素晴らしい。でも嫌なことは断ってもいいんだぞ」
その日の夜、居酒屋に連れていき、説教口調でそう言った。
「そうそう、我々教師は放課後だって暇じゃないんだから」
西村先生も賛同する。彼女は普段、家族のために晩ご飯を作っていて、滅多に飲み会に参加しない。今日は旦那も子どもも外で済ませるらしく、水を得た魚のように、生き生きと飲んで、食べて、喋っている。
「脱いでくださいって言われたら、本当に脱ぎそうで心配だわ」
「いえ、ちゃんと断りました」
倉知先生が得意げなキリッとした顔で言った。
「へっ、脱いでって言われたの?」
かじりついていた手羽先を取り落とし、西村先生が前のめりになる。
「生徒から? 全裸になれって?」
「いえ、まさか、筋肉の勉強がしたいから、上だけ脱いでって言われたんです。でも断りました」
本当に筋肉の勉強が目的かは怪しいな、と思ったが、倉知先生はなんの疑いも持たない澄んだ目をしている。
「よかった、さすがに脱ぐのは抵抗あったのね」
「抵抗はないですけど、加賀さんが」
そこまで言って、言葉を切った。
なるほど、加賀さんか。他人に裸を晒すと加賀さんが怒るとか、泣くとか、嘆くとか、そういうのだろう。独占欲がほほえましい。
西村先生と視線を合わせ、軽くうなずき合う。
あえて、触れないでおこう。
「いや、あの、ほら、生徒に対するセクハラになりかねないですし、ね」
言い訳をする倉知先生の顔が赤い。西村先生は、倉知先生ののろけが大好物だ。酒が進む、と言いながらビールを呷っている。
恥じらう倉知先生を存分に味わったあとで、しみじみと口を開く。
「立派な一人前の教師になったな」
ハッと顔を上げた倉知先生が、嬉しそうに口元をほころばせた。
「ありがとうございます、まだまだです」
「もう俺がいなくても平気かな」
「え」
「まあ、とっくに平気か」
自分が支えていたなんて、おこがましい。多分、倉知先生なら、どの学校でも上手くやれていただろう。
「浅見先生、そろそろ異動?」
西村先生が串揚げを頬張りながら、訊いた。
「さあ、西村先生かもしれないし、倉知先生かも」
「そっか、倉知先生も三年目だっけ」
教師には異動がつきものだ。基本的には三年から十年で異動させられる。毎年入れ替わりがあるので、新鮮といえばそうだが、少し寂しくもある。
「一緒にやれて楽しかったね」
イエーイと言いながら、西村先生がビールジョッキをかざした。
「まだわかりませんけどね」
コーラのグラスを持ち上げてそれにくっつけたが、倉知先生が放心している。
「おーい」
顔の前で手のひらを振ると、「あ」と声を漏らし、うつむいた。
「そう、ですよね……、ずっと一緒じゃないんですよね……」
「えっ、ちょっと、泣いてるの?」
西村先生が胸を押さえて甲高い声を上げた。
となりの倉知先生を覗き込むと、目が赤い。鼻をぐずつかせ、「すいません」と震える声で謝った。本当に、素直な奴だ。
「離れ離れになるのが、つらくて、すいません」
「やだもう、ほんと可愛いんだから! ねえ、浅見先生、どうしましょう、ね、なんかこっちまで寂しく……」
明るく笑っていた西村先生が、突然声を詰まらせ、口を押えた。そして、ハラハラと涙をこぼす。
この人は情に厚く、卒業式でも毎年泣いている。俺はいつもそれを羨ましいと思っていた。
俺は、泣くことがない。
感情の波が、いつでも凪いでいる。
そう思っていたのに、目頭が、熱い。
「泣きそう」
自己申告をすると、二人が俺の顔を見た。そして、泣きながら、笑う。一緒になって、笑って、涙を流した。
何年ぶりに泣いただろう。顔も痛いし、頭も痛い。うめきながら帰宅する。
玄関のドアを開けると、明かりが点いていた。しまった、消し忘れた、とつぶやくと、奥から「おかえりー」と声がして、駆けてくるスリッパの音。
踊るように姿を見せたのは、妻だ。
アメリカでデザイナーをしている彼女は、帰国するときは一切連絡を寄越さない。俺の驚く顔が見たいから、らしい。とはいえ、何度サプライズ帰国をされても、喜びや驚きは顔に出ない。表情筋とやらが死んでいるのだ。
「ただいま。びっくりした、おかえり」
妻の頭を撫でる。
「あれ、なんか、今ちょっと笑った?」
キラキラした目で俺を見る妻を、抱きしめた。
「さあ、どうかな」
多分、俺は今、笑っている。
〈おわり〉
最初のコメントを投稿しよう!