和ぐ《なぐ》

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和ぐ《なぐ》

〈浅見先生編〉  両手を広げ、ドリブルコースを塞ぐ。  体育館の床を走り回る複数の足音。キュ、キュ、と靴底の音が鳴る。生徒の歓声は、それをかき消すほど大きかった。  ボールを持った倉知先生と目が合った。このときだけ、バスケをしているときだけは、彼の目に闘志が宿る。  腰を落とし、左右にボールを振る。その動きに合わせ、手を出した。瞬間、素早いロールターンでかわされ、よろめいた。体勢を立て直して振り向くと、ゴールに向かって跳躍する背中。  ガン、とリングが音を立てる。  芸術的なワンハンドのダンクに、オーディエンスがドッと沸く。いや、ドッというよりも、キャーが正しい。女子がキャアキャア騒いでいる。  倉知せんせーという黄色い声に、頭を下げ、控えめに手を振って応える姿が、また彼女たちのキャーに拍車をかける。  倉知先生のファンは、年々増えていく。男女学年問わず人気だ。昼休みはサッカーや野球のみならず、トランプや将棋に誘われたり、校庭の花壇の手入れをする生徒に紛れていたりもする。  勉強を見てやったり、進路の相談にのったり、放課後も休む暇がない。  あらゆるタイプの生徒から信用され、好かれている。必要とされれば断らないので、とにかく忙しい。  放課後、席にいないと思ったら、美術部でデッサンのモデルをやらされていると聞いて、思わず訊き返した。 「ヌード?」 「やめてよもう、浅見先生たら、そんなわけないじゃないの」  西村先生が俺の腹を両方のこぶしで乱打してくる。その動きが止まったと思ったら、真剣な顔で「そんなわけないよね?」と俺の胸倉をつかんだ。  生徒たちが頼めば、奴は脱ぐ。かもしれない。  不安になった俺たちは、美術室に向かった。教室の後ろのドアに隙間を開け、覗き込む。  椅子に座った美術部員たちが、倉知先生を囲んでいる。円の真ん中に立たされた倉知先生は、スーツの上着を脱いで、それを肩にかけ、左手をポケットに入れたポーズをとらされている。スーツ売り場にあるマネキンのようだ。 「ヌードじゃなかった」  一緒に隙間を覗いていた西村先生が、ホーッと安堵の息をつく。  そりゃそうだ。いくらお人よしでも裸になるわけがない。 「ちょっと見て、あの顔」  西村先生が潜めた声で言った。緊張と、羞恥が入り混じった表情。どこを見ていいのかわからない様子で、目が泳いでいる。  イーゼル越しに注目されて居心地が悪そうだ。 「可愛いね」  クスクスする西村先生につられて、ふっと笑いが漏れた。  確かに、可愛い。健気にがんばっている姿には心を打たれる。  だが倉知先生は、「いい先生」すぎる。 「生徒ファーストなのは素晴らしい。でも嫌なことは断ってもいいんだぞ」  その日の夜、居酒屋に連れていき、説教口調でそう言った。 「そうそう、我々教師は放課後だって暇じゃないんだから」  西村先生も賛同する。彼女は普段、家族のために晩ご飯を作っていて、滅多に飲み会に参加しない。今日は旦那も子どもも外で済ませるらしく、水を得た魚のように、生き生きと飲んで、食べて、喋っている。 「脱いでくださいって言われたら、本当に脱ぎそうで心配だわ」 「いえ、ちゃんと断りました」  倉知先生が得意げなキリッとした顔で言った。 「へっ、脱いでって言われたの?」  かじりついていた手羽先を取り落とし、西村先生が前のめりになる。 「生徒から? 全裸になれって?」 「いえ、まさか、筋肉の勉強がしたいから、上だけ脱いでって言われたんです。でも断りました」  本当に筋肉の勉強が目的かは怪しいな、と思ったが、倉知先生はなんの疑いも持たない澄んだ目をしている。 「よかった、さすがに脱ぐのは抵抗あったのね」 「抵抗はないですけど、加賀さんが」  そこまで言って、言葉を切った。  なるほど、加賀さんか。他人に裸を晒すと加賀さんが怒るとか、泣くとか、嘆くとか、そういうのだろう。独占欲がほほえましい。  西村先生と視線を合わせ、軽くうなずき合う。  あえて、触れないでおこう。 「いや、あの、ほら、生徒に対するセクハラになりかねないですし、ね」  言い訳をする倉知先生の顔が赤い。西村先生は、倉知先生ののろけが大好物だ。酒が進む、と言いながらビールを呷っている。  恥じらう倉知先生を存分に味わったあとで、しみじみと口を開く。 「立派な一人前の教師になったな」  ハッと顔を上げた倉知先生が、嬉しそうに口元をほころばせた。 「ありがとうございます、まだまだです」 「もう俺がいなくても平気かな」 「え」 「まあ、とっくに平気か」  自分が支えていたなんて、おこがましい。多分、倉知先生なら、どの学校でも上手くやれていただろう。 「浅見先生、そろそろ異動?」  西村先生が串揚げを頬張りながら、訊いた。 「さあ、西村先生かもしれないし、倉知先生かも」 「そっか、倉知先生も三年目だっけ」  教師には異動がつきものだ。基本的には三年から十年で異動させられる。毎年入れ替わりがあるので、新鮮といえばそうだが、少し寂しくもある。 「一緒にやれて楽しかったね」  イエーイと言いながら、西村先生がビールジョッキをかざした。 「まだわかりませんけどね」  コーラのグラスを持ち上げてそれにくっつけたが、倉知先生が放心している。 「おーい」  顔の前で手のひらを振ると、「あ」と声を漏らし、うつむいた。 「そう、ですよね……、ずっと一緒じゃないんですよね……」 「えっ、ちょっと、泣いてるの?」  西村先生が胸を押さえて甲高い声を上げた。  となりの倉知先生を覗き込むと、目が赤い。鼻をぐずつかせ、「すいません」と震える声で謝った。本当に、素直な奴だ。 「離れ離れになるのが、つらくて、すいません」 「やだもう、ほんと可愛いんだから! ねえ、浅見先生、どうしましょう、ね、なんかこっちまで寂しく……」  明るく笑っていた西村先生が、突然声を詰まらせ、口を押えた。そして、ハラハラと涙をこぼす。  この人は情に厚く、卒業式でも毎年泣いている。俺はいつもそれを羨ましいと思っていた。  俺は、泣くことがない。  感情の波が、いつでも凪いでいる。  そう思っていたのに、目頭が、熱い。 「泣きそう」  自己申告をすると、二人が俺の顔を見た。そして、泣きながら、笑う。一緒になって、笑って、涙を流した。  何年ぶりに泣いただろう。顔も痛いし、頭も痛い。うめきながら帰宅する。  玄関のドアを開けると、明かりが点いていた。しまった、消し忘れた、とつぶやくと、奥から「おかえりー」と声がして、駆けてくるスリッパの音。  踊るように姿を見せたのは、妻だ。  アメリカでデザイナーをしている彼女は、帰国するときは一切連絡を寄越さない。俺の驚く顔が見たいから、らしい。とはいえ、何度サプライズ帰国をされても、喜びや驚きは顔に出ない。表情筋とやらが死んでいるのだ。 「ただいま。びっくりした、おかえり」  妻の頭を撫でる。 「あれ、なんか、今ちょっと笑った?」  キラキラした目で俺を見る妻を、抱きしめた。 「さあ、どうかな」  多分、俺は今、笑っている。 〈おわり〉
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