八月二十五日の二人

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八月二十五日の二人

〈倉知編〉  今日も暑い日だった。  日が落ちてもまだ暑い。  ネクタイを緩め、一番上のボタンを外す。ワイシャツの袖をまくり上げ、冷えた店内に入ると、ようやく息をつけた。  買い物かごを手に野菜のコーナーを一瞥する。  何にしよう。  こう毎日暑いと食欲が湧かず、メニューも決まらない。  とりあえず、長芋が安い。長芋に多く含まれるアミラーゼには、夏バテ予防の効果がある。  買い物かごに長芋を入れてから、どう料理しようかと思案する。  輪切りにして、バターとめんつゆでステーキにするのが手軽でいいが、やはり長芋といえばとろろだ。まぐろと合わせて山かけ丼にするのが王道だが、うなぎとも相性がいい。  鮮魚コーナーを眺めてうなぎとまぐろを見比べてウロウロしていると、ぶら下げていた買い物かごに突然重みが加わった。見下ろすと、ビールの六缶パックが入っている。続いて何かが放り込まれた。ピスタチオの袋だ。 「ビール、もうなかったよな」 「加賀さん!」  スーツの加賀さんがごく自然に合流し、いつの間にか隣に立っていた。不意打ちの加賀さんはすさまじい。仕事の疲れが吹っ飛んで、全身に広がる幸福感。  思いがけず外でばったり出会うと、なんだか妙に嬉しくて、舞い上がってしまう。  抱きしめたい衝動を抑え、精一杯大人らしく、冷静に、振る舞わなければ。 「おつかれさまです」 「おう、おつかれ。今日魚にすんの?」 「まぐろととろろか、とろろとまぐろか、どっちがいいかなって悩んでて」 「どう違うんだよ」  加賀さんが笑って、俺の胸に手の甲でツッコミを入れる。 「え? あっ、うなぎです。うなぎとまぐろ、どっちにととろ、とろろを、その、ねえ?」  加賀さんが吹き出した。浮かれすぎて言葉がおぼつかなくなる俺を、加賀さんはニヤニヤしながら上目遣いで見てくる。 「めっちゃ可愛い」  口元を押さえ、小さくつぶやいたのが聞こえた。カーッと顔が、熱くなる。 「とろろは確定なんだな?」 「はい、確定です。元気になるかなって」 「じゃあうなぎ」  加賀さんがうなぎのトレーを手に取って、俺を振り仰ぐ。 「うなぎととろろ、確かにすげえ元気になりそうだな」  爽やかな笑顔だったが、その言葉の真意を悟り、途端に落ち着かなくなった。気を張っていないと、下半身に影響を及ぼしてしまう。頬の内側を噛んで、耐える。 「なんかさ」 「はい」  先に立って歩き出す加賀さんを追いかけて、横顔を見る。 「たまたまビール買いに寄ったんだけど、倉知君がいてめっちゃ嬉しくて、なんだろな、別に、家に帰れば会えるんだけど、すげえ幸せになった」  胸がときめくとかではとても足りない。心臓を、貫かれた。再び巻き起こる抱きしめたい欲求を、胸を押さえて閉じ込めて、深くうなずく。 「まったくもって、同感です」  というほかない。 〈おわり〉
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