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妻の苦悩
2ヶ月前、母子手帳が交付された。
現在妊娠18週を過ぎた頃。もう、安定期と呼んでいいだろう。
もちろん、父親は空欄。役所には1人で育てると言えばそれ以上何も聞いてはこない。代わりにサポートやらなんやらたくさん説明されたが、そこは聞き流しつつも『父親不明の子供の母親』としてその場にいればそれだけで済んだ。
少しばかり、お腹が目立つようになってきた。緩めのワンピースを着てごまかしている。
今ならまだ、ごまかしていられる。
ごまかしていられるうちに…。
―――
この日の夫は朝が少しだけ早かった。
眠りが浅くなり始めていた私は同時に目を覚ました。
「しょーちゃん、おはよ」
私は夫の寝起きを噛み締めるように目に焼き付けた。
「さくら…おはよ。嬉しい…」
夫はすぐにふにゃふにゃと破顔して、私を優しく抱き締めた。髪を撫で、そして軽く唇を合わせた。
「んっ…もっかい、して?」
今日は、今日だけは、おねだりしてもいいよね。ワガママ言ってもいいよね。
夫は途端に男の顔になり、軽い、触れるだけのキスの雨を降らせた。
もっと、もっと欲しい。
この時間が、永遠に終わらなければいいのに…。
そんな思いとは裏腹に、夫は私から体を離した。
「これ以上は…ハァ…仕事に支障が出そうだから…」
頬を染めて、少し息の上がった夫。
かわいい。抱き締めたい。
朝からこんな姿が見られるなんて…ワガママも言ってみるもんだ。
「うん、ごめんね、朝から変なことして…」
本当はもっと触れていたかった。
離れたくなかった。
でも夫は、顔を洗うと走って行ってしまった。
分かってる。
これ以上触れていたら、何かの拍子でお腹の膨らみに気付かれてしまっていたかもしれないし。
感情に任せていたら仕事に遅れていたかもしれないし。
理性的な夫で良かった、私のようなワガママを言わない夫で。
夫のいなくなった寝室は急に広く感じた。夫の枕に手を伸ばし、満たされない何かを埋めるように、ギューっと抱き締めた。
夫の匂いがして安心する。
匂いの記憶は最後まで残ると聞いたことがある。今後忘れてしまわないように、枕をいつまでも抱き締めた。
ふふっ、なんか変態みたいだな、なんて客観的に見てしまう自分もいたけど、今日だけは許してほしい。
―――
「じゃぁ、行ってくるね」
「うん、バイバイ」
精一杯の作り笑顔で見送り、夫はいつも通り出勤して行った。
私はいつも通りできていただろうか。
「いってらっしゃい」と言わなかった辺り、未練タラタラで呆れてしまう。自分で決めたことなのに。
―――
さぁ、これからが本番だ。
職場に退職届を郵送しなければ。実は今、体調不良という名目で有休をまとめて消化中の身なのである。
スマホはその場で解約した。便利な世の中になったものだ。
クローゼットの奥から例のトートバッグを取り出し、荷物の最終チェックをする。最小限の着替えと財布。それに母子手帳に運転免許証、自分名義の通帳・カード・印鑑の3点セット。
これだけあれば何とかなるだろう。
部屋は至って普段通りの、片付いたような片付いていないような…特にかしこまったことはしなかった。生活感はそのままに。これも未練がましいったらありゃしない。
最後の関門。
玄関を出る前に、財布から私の宝物を取り出した。
それは関係者席のチケット。
もう何年も前、彼らがまだ無名アイドル時代の、私が自転車をぶつけたあの時の、思い出のライブチケット。
これを手放すことが、私の中のケジメでもあった。
でも玄関に置くなんて未練がましい…もう!未練タラタラなのは自分でも分かっている。
ただ…仮に私がいないと騒いだとしても、チケットが置いてあれば夫は分かるはずだ。夫は賢い。これが自らの意思であることが。
さよなら、私の宝物。
さよなら、私の幸せだった日々。
さよなら、私の…大好きな人。
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