家貸し亮三

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家貸し亮三

 佐伯(さえき)亮三(りょうぞう)の正体を知る人間は少ない。  年の頃、六十手前。性別、男性。白髪の多い五分刈り頭。いつもくたびれたジャケットとワイシャツ、スラックスを身につけている。  その身なりに頓着(とんちゃく)しない、しかし小綺麗にしているその見た目を、侮る人間も数多い。見かける場所が決まって、新宿歌舞伎町の立ち飲み居酒屋というのも、それに拍車をかけた。  亮三自身、人当たりのいい性格らしく、よく酔客と会話を交わしては酒を酌み交わしている。心の壁というやつを、自然と溶かしてくれる人柄なのだろう。  そんなものだから、彼を知る人間は彼の素性を知っているかと言えば、そうではない。  ある人は「あいつは大企業の社長さんだ」と言う。  またある人は「新宿を裏からまとめる、裏社会のドンだ」と言う。  はたまたある人は「新宿を根城にするホームレスだ」と言う。  どれもこれも根拠のないうわさ話だ。話が盛り上がった流れで亮三本人に問うてみても、彼は「そんなんじゃねぇよ」とはぐらかして答えない。  故に、「亮三さん」を知っている人は多くいても、それが何者であるかを知っている人間は、ほぼいないのだ。  だから。 「隣、邪魔するよ」  新宿歌舞伎町の立ち飲み屋「龍馬(りょうま)」にて、一杯目のハイボールを傾ける僕の隣に、そう言って「亮三さん」がやってきた時、僕は目を見張ったものだ。  居酒屋巡りが趣味の僕は、居酒屋での話もよく耳にする。当然、彼のことだって知っていた。  知っているとはいえ、勿論彼の素性や職業は知らない。他の酔客と何ら変わらないのだ。 「おう亮三さん、今日は何にする」 「キンミヤ、水割りで」  カウンター向こうの店主とも顔馴染みなのだろう、会話にも淀みはない。こうして隣に座って顔を見てみると、彼の顔はほんのり赤みを帯びていた。二軒目なのかもしれない。  そしてカウンターから焼酎水割りのグラスが持って来られて、亮三さんがそれに口をつけるのを、僕は横目でずっと見ているのだが。  ふと、視線が合った。 「どうした、兄ちゃん」 「あっ、いえ、その」  声をかけられ、まごつく僕だ。いけない、じっと見ているなんて不躾(ぶしつけ)なことをしてしまった。すぐに頭を下げる。 「……すみません、初めて飲んでいる姿を見たもので」 「ああ、俺をかい」  僕の言葉に気を悪くした風でもなく、しかしざっくばらんな口調で、彼は――佐伯亮三は言った。  水割りのグラスをぐっと傾けて、息を吐きながら彼は話す。 「飲んだくれ連中も、えらく俺の話を膨らませてやがるなぁ。やれ社長だ、やれカタギじゃないだ」 「はい、それは……僕もそれを知っていたから、どんな恐ろしい男だろうと」  呆れたようなその口調に申し訳ない気持ちになりながらも、僕はもう一度「亮三さん」の目を見て、話す。  服こそくたびれているが、立ち振る舞いは愛想を崩しつつもしゃんとしている。瞳に剣呑な色もない。総じて言えば―― 「普通、ですね」 「はっは、普通じゃない見た目をした男が、この世の中どれほど居るよ」  僕の発した言葉に、からからと笑う亮三さんだ。その笑い方にも、嫌みはない。非常に、どこにでもいる酒飲みのおっちゃんの笑い方だ。  そこから、僕は彼と横並びになりながら話しつつ飲んだ。この店は何がおすすめだ、新宿歌舞伎町ならどの店がいい、などなど。  二杯目のハイボールと、うずらの卵の串揚げを頼んだ僕に、亮三さんは目を細めながら声をかける。 「兄ちゃんは、ここに来るのは初めてかい」 「はい、初めてです。美味しいと聞いたので……本当に美味しい」  カリッと揚がり、中がほくほくとしたうずらの卵を頬張りながら、僕もうっすらと目を細めた。  知り合いから「ここは安くて美味い」と聞いていたのでやってきたわけだが、なるほど、その評価は間違いない。今頼んだものを全部計算しても、席料を含めても1,000円はいかないだろう。  嬉しそうな僕を見て、亮三さんがにやりと笑う。 「そうだろう、ここは串揚げが美味いんだが、他のもんもだいたい美味い」  そう言いながら彼が口に運ぶのは紅ショウガの串揚げだ。これまた、美味しそうに食べられる。そして焼酎水割りをぐいっと飲まれて、こちらもいい飲みっぷりだ。  ちょうどものが無くなったところで、亮三さんがカウンターの店長を呼び止める。 「おっ、大将。マグロのブツと串盛り三本、あと水割りおかわりね」 「あいよー」  注文するや、亮三さんの差し出した水割りのグラスと、串揚げを乗せていた小皿が引き上げられる。その淀みの無い動きに、僕は目が離せないでいた。 「……こちらには、よくいらっしゃって?」 「ああ、週イチくらいで来るかね。具合がいいんだ」  恐る恐る問いかけた言葉に、亮三さんがにこやかに返してくる。  しかし、週に一度のペースでここに来られるとは。ますます、正体が分からない。 「週イチ……その、不躾(ぶしつけ)ですが、お仕事は何を?」  僕は意を決してそれを問いかけた。よくあるようにはぐらかされるのか、それとも。心臓の音が早鐘を打つ中で、亮三さんがにっこりと笑って言う。 「何だと思う?」  水割りのグラスを受け取りながら、彼はそう返してきた。これはこれで、予想外だ。 「えぇっ……と」  言葉に詰まりながら僕は改めて彼の顔を見る。  人当たりの良い笑顔、張り詰めていない空気、しゃんとしているようで、適度に崩されているその立ち振る舞い。社会にこなれているようで、社会を離れた世捨て人のようにも見える。  なるほど、この様相では「ホームレスだ」と思う人が出るのも分かる。かと言って、ホームレスのような薄汚れた感じはしない。  ひとまず、置きに行く。 「会社員……では、ないと思っています」 「ピンポーン」  僕の答えに、ほがらかに笑って返す亮三さんだ。このおどけた感じ、ますます普通の男ではない印象を受ける。  面食らう僕に対して、彼は水割りのグラスを口に運びながら、言った。 「俺はな、他人(ひと)に家を貸して暮らしてんだ」 「家を……貸す、ですか?」  彼の言葉に、僕は大きく目を見開いた。  家を貸す。  なんだろう、不動産業を営む人間なのだろうか。それともなんかもっとこう、アンダーグラウンドなことに使う場所として家を提供しているのだろうか。  普通に不動産業を営んでいるなら「家を貸す」なんて言い方はせず、「不動産業をやってる」と言うだろう。ますますこの人が分からない。 「不動産業を営んでいらっしゃる?」 「そんな大それたもんでもねぇよ。持ってる家なんざ俺んちと、後は寝起きに使ってるワンルームくらいだ」  僕の驚く顔を見て、へらりと笑う亮三さん。  なるほど、自分の家だけを持っていて、その家を賃貸に出しているのか。これは確かに、「家を貸している」だ。  しかし、当然疑問はある。 「……何故、そんなことを?」  僕は酒の勢いに任せ、率直な疑問を投げかけた。  持ち家があるなら、その家に住めばいいだけの話だ。わざわざ別宅を用意して、元の家を貸すのは無駄がある気がする。  だから純粋に、その理由が気になった。  僕の問いかけに、彼はふっと遠い目をして話し始める。 「俺にゃあ、妻も、子も、親も無ぇ。あるのは金と服、そんで親の遺してくれた俺んちだけだ」  その寂しそうな言葉に、僕は静かに聞き入った。彼ほどの年頃の男性が、妻もなく、子もなく、親に先立たれるなど、どんなにか寂しいことだろう。  その寂しさを振り払うように、酒を呷りながら彼は話す。 「その俺んちがな、市ヶ谷(いちがや)にあんだけどよ。そこを他人(ひと)に格安で貸してんだ。その家賃収入で暮らして、ワンルームマンションの一室買って、そこで寝起きしてるってわけよ」  彼の零した地名に、今度こそ僕は目をかっ開いた。  市ヶ谷(いちがや)。東京23区でも特に高級住宅街で、一等地も一等地だ。  思わず飲んでいたハイボールを吹きそうになって、咳き込みながら声を出す。 「いっ……げほっ、都心の一等地じゃないですか!? なんでそんな……」  いいところの家を手放しつつ手放さず、中途半端な形にしておくのか。  大声を出しそうになる僕をそっと制して、亮三さんは小さく笑う。 「どんないいとこにあってもよ、デカいだけの家を一人で持ってちゃ持て余しちまわぁ。だから必要なやつに貸してるだけの事よ。日々飲み歩くだけの金は手元に入る」 「はぁ……」  彼の物言いに、力なく返事を返す僕だ。  市ヶ谷で一戸建てとなれば、どれだけ築年数が経っていたとしても月数十万は間違いない。亮三さん一人が、場末の飲み屋で日々飲むくらいの額を、余裕で生むだろう。  キンミヤ焼酎の水割りのグラスを軽く持ち上げながら、彼はにんまり笑ってみせる。 「俺はよ、兄ちゃん。人間にゃあちょうどいい(・・・・・・)ってもんがあるってことを分かってんだ。あの家は俺にゃあちょうどよくねぇ(・・・・・・・・)。だが手放すのも勿体ねぇ。で、こうしてるってわけよ」  そう話しながら、亮三さんがぐいと水割りのグラスを干した。  そうだ、彼はすなわち、自分のちょうどいいを知った上でそうしているのだ。自分の家を市ヶ谷に持てるくらいの彼なら、ワンルームマンションの一室もそれ相応の場所に持てるだろう。だから、こうして都心部でふらふらと飲み歩けるのだ。  酒をたんまり入れた亮三さんが、僕の肩をばしんと叩く。 「どうだ、社長でもねぇし、カタギの人間だし、ホームレスってわけでもねぇだろ? でも、今の話を言いふらすんじゃねぇぞ。箔が付かなくなっちまわぁ。はっはっは」 「は、はい……」  磊落(らいらく)に笑う亮三さんにそう言われながら、僕は残り少ないハイボールに口をつける。  正体は分かった。しかし分かっただけで、彼が只者でないことは間違いのないことだ。  何とも言えない心境になりながら、僕は亮三さんと共に飲む時間に身を沈めていくのだった。
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