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「ご飯できたよ。運んでくれる?」
「ありがと。うわあ、うまそー」
パンとバターとコーヒーの匂いに包まれる。
コーヒーの苦味には慣れたが、それほど好きなわけでもない。けれどなんとなく、朝はコーヒーを飲まなければ朝ではないような気がして、朝食には必ずコーヒーを入れている。
私からあなたへ毎朝送るコーヒー。全部で何回入れたかなんて分からない。
それでもあの時、あなたがくれた一本の缶コーヒーには敵わない。
あれから10年。
私はあなたに支えられながら、高校時代を生き抜いて大人になった。戸籍上は男性のままだが、女性ホルモンを投与している。今でも社会生活を送る中で辛いことはたくさんあるが、一人じゃないという事実が何よりの救いだった。
二年前にあなたとパートナーシップを申請した。
あの日「そばにいる」と言われてから一緒にいる時間が増え、私はあなたに心惹かれていった。でもあなたは男性だから、男性の見た目の私のことなど愛してはくれないだろうと思っていた。
だから二年前のクリスマスイブの日に、「結婚しよう」と言われたときは驚いた。「好き」でも「付き合おう」でもなく「結婚しよう」——私の全てをわかってくれている、そう思って、あなたに対する信頼は絶大なものとなった。
実際には『結婚』ではなく、『結婚』に相当する『パートナーシップ制度』なのだが、そうまでして私を愛してくれるあなたに胸を打たれた。いつか性別適合手術をして戸籍が女性に変わったら、正式に婚姻届を出そうと思う。
あなたは今までと変わらず、毎日電車で通勤する。けれど引っ越したので、私とすれ違っていたあの場所を通ることはもうない。
それでも私は毎日生きる。
今はあなたが私の目を見てくれるから。
毎朝私に笑顔を向けてくれるから。
あの場所に戻れなくても、あなたが私をわかってくれているだけで、私は生きていける。
入れたてのコーヒーをひと口飲んだ。深みのある、上品な香りのエスプレッソ。
「ねえ」
「なに?」
「ついてるよ、泡」
あなたは口の辺りを軽く指差して言った。私が慌てて手の甲で拭うのを見て、あなたはやさしく微笑んだ。私もなんだかおかしくなって、笑い始めると止まらなくなった。二人はわけもわからず大笑いして、しまいには涙を流した。
空に残る朝月だけが、それを見ていた。
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