2.女神の娘

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2.女神の娘

妹の翠蓮(すいれん)は藍珠とは何もかもが正反対だった。    藍珠が生まれた翌年の春に生まれた翠蓮は、一族の守護神と崇められる風の女神の祭日に生まれた。    母は父の正室で、黄族の宗主国である(こう)国の高官の娘である(れい)氏。  やわらかな栗色の髪に明るい茶の瞳を持ち、人懐こく愛嬌がこぼれるように可愛らしい翠蓮は一族の誰からも愛され、「女神の娘」と称えられていた。  玲氏は奴婢の身でありながら、自分に先んじて夫の子を産んだ藍珠の母を激しく憎んでいた。  藍珠の母の栄寧(ロンニン)は、藍珠を生んでからも側妾としての待遇も受けられず、奴婢の身分のまま産後もかまわずに働かされた。  その無理がたたって、二十代半ばという若さで亡くなった時も、まともな葬儀も営んで貰えなかった。  集落の外れの墓地に埋められた母の土を盛り上げただけの粗末な墓の前で、藍珠と一緒に泣いてくれたのは涼雲とその両親だけだった。  栄寧は幼い藍珠の目からみても、とても美しい人だったがその美貌も亡くなる半年ほど前からはひどく衰えて見る影もなくなっていた。  洗濯物を干し終えて、さて次は馬小屋の掃除だと小走りにむかう途中で、翠蓮がむこうからやってくるのが見えた。  ふたつに分けて複雑なかたちに編み込んだ髪に、いくつもの髪飾りや花を挿し、愛らしい茜色の服を着ている。  いつ見ても輝くように愛らしい。    まわりの人たちからの溢れるばかりの好意のこもった視線を当然のように受け流して、翠蓮はこちらにやって来た。 「藍珠姉さん。こんなところにいたの? 探したのよ」  翠蓮は藍珠のことを「姉さん」と呼ぶ。  母の玲氏をはじめ、まわりにどんなにたしなめられてもやめない。  奴婢の産んだ子はあくまで奴婢に過ぎない。立場がちがう。姉妹として扱うことはないと言う人たちに翠蓮は、やわらかな頬をむっと膨らませて、 「そんなの変よ。同じお父さまの娘なのに」 と抗議をした。 「あの子は凶星なのです。関わったら不幸になりますよ」 と言われれば、 「そんなの迷信よ。姉さんを悪く言う人は私が許さないわ」 と言い返した。  翠蓮はその見た目と同じ、中身も風のようにおおらかで水のように清らかで善良だった。  彼女の愛らしい顔でそう言われた相手は、渋々でも折れずにはいられない。  それは藍珠たち母子を怨敵のように憎み切っている玲氏も例外ではなかった。  愛娘に、 「ねえ、いいでしょう。お母さま。お母さまは一族の慈愛の女神なのにそんなことをおっしゃるなんておかしいわ」  と何度も言われた玲氏は、翠蓮が藍珠を姉と呼ぶのを認め、藍珠が翠蓮の天幕に出入りするのを許した。  それはあくまで侍女の一人として彼女の世話をさせるためだったが、栄寧が一生涯、奴婢として下働きばかりさせられ、首長の一族の住まう天幕には近づくことも許されなかったことを思えば破格の待遇といっても良かった。 「姉さんったら、また髪がほつれてるわ」  翠蓮が、ひとつにまとめて束ねただけの私の髪に手を伸ばした。  翠蓮付きの侍女の莉宇(りう)が嫌そうに眉をひそめるが、主人である翠蓮の機嫌をそこねることを恐れて何も言わない。 「とても綺麗な黒髪なのに、いつもちっとも構わないんだから。もっときちんと手入れしないと涼雲さんに嫌われちゃうわよ」  翠蓮がにっこりと笑って言う。 「だって面倒で」  藍珠も笑って答えた。 「駄目よ。そんなことじゃあ。姉さんは美人なのに自分の見た目に無頓着過ぎるわ。ねえ、そう思うでしょ。莉宇」 「ええ、本当に」  翠蓮に蕩けそうな笑顔を向けた莉宇は、翠蓮がこちらを向くなり氷のような冷ややかな目つきに戻った。  彼女は自分の大切なお嬢さまが不吉な凶星に構うのが嫌で仕方がないのだ。   「ほら。こうやって。少しはお洒落しなくちゃ」  翠蓮が髪にさしていた簪の一つをとって藍珠の髪に挿した。 「お嬢さま!」  莉宇の声がたちまち尖る。 「それは大奥さまから頂いた大切なお品ですのに」 「あら。いいでしょう? この瑠璃の青は私より姉さまによく似合うわ」  藍珠はされるがままになりつつ、目だけで莉宇に (あとで返しに行きますから)  と合図をする。  莉宇は大袈裟に溜息をつき、 「本当に、お嬢様はお優し過ぎますわ」  と言った。 「本当に」  笑って頷きながら藍珠の胸は、かすかにざわめく。  お優しい翠蓮お嬢さま。  本当にそうだろうか。  彼女はいつも気づかない。 「もっとお洒落しなくちゃ」  と言いながら、藍珠にはそんな時間なんてないことに。  朝は夜明けから、夜は遅くまで休む間もなく仕事を言いつけられている藍珠が髪を編んだり手入れをしたりする時間なんてあるはずがないのに。  こんなみすぼらしいなりの藍珠が豪華な簪などをしていたら、盗んだと言われて言い訳も許されずに打たれるだけなのに。  優しい翠蓮はいつもそれに気づかない。  気づかないまま、あたたかな春風のように罪のない笑顔で笑っている。  
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