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ストレートの黒髪に黒いパンツスーツ。
一見、魔女か殺し屋に見えるファッションが、新入りの派遣社員・高橋美緒25歳の定番だった。
一見ミステリアスな美女。
伊藤篤哉35歳は、彼女の隠れた趣味を知っている。
「おしゃれしてくるんじゃなかった」
個室の引き戸を開けるなり、そう言った美緒に、一人で待ちぼうけさせられていた篤哉は苦笑いするしかない。
「どういう意味だよ」
「そのまんまですよ」
そう言うと、不服そうな顔で篤哉の向かいに座った。
今日は仕事仲間四人で飲み会の予定だった。
ところが一人が体調不良、一人が急用でドタキャン。
予定外に二人きりになってしまった。
「だって伊藤さん、めっちゃ普段着じゃないですか」
ネイビーのパーカーにチノパン。
一点の曇りもない普段着。
「飲み会で気張った服着ないでしょ」
「なんか私だけ浮かれて張り切って空回りしてるみたいじゃありません?これ」
一方の美緒は、ベージュのタートルネックに水色のフレアスカート。
私服は意外と華やかなんだな、という感想だった。
「似合ってるよ」
「それはどうも。松原さんの連絡がもっと早かったら、私も普段着で来たのに」
「まあまあ、今日は奢るから機嫌直せって」
「…伊藤さんは優しいですね」
「たまにはお礼しないと。この間のデータ入力、高橋だから間に合った」
「ああ、あれは…伊藤さんの頼みだから、だいぶ頑張りました」
美緒は美人で、それゆえに、仕事で正しく評価されていない。
ちょっと笑えば媚びてると言われるからあまり人と話さないし、服が真っ黒なのは男の目を逸らすため。
派遣に転職した理由も、美人すぎて前職で嫌な目にあったらしい、という噂。
でも、データ入力の速さはもはや魔法の次元だ。
こんなに頑張ってるのに、美人って損なんだな、と篤哉は気の毒に思っている。
本人は意外とお笑い番組が好きなのだ。
仕事中に、一昔前に流行った一発ギャグを口にしたときの、やらかした、という表情が印象に残っている。
篤哉もお笑いが好きなのでそのまま話に乗っかって、けっこう打ち解けられた。
だけど、美人が笑い話をするとガッカリする男もいるわけで。
喋らないほうがいいって言われたことがあるから、と無口になった理由を教えてくれた。
何様だよそいつと思う。
「とりあえず何か飲むか」
「よーし奢りだし飲んじゃうぞ」
「ほどほどにお願いします」
「伊藤さん唐揚げ食べます?」
「食べる」
エンジンがかかってきたのか、美緒は饒舌だ。
普段はクールな口元がよく動く。
表情は変わらないのがまた可笑しい。
「あと、厚焼き卵とかポテトサラダとか」
「いいねポテサラ、久しぶりに食べる」
篤哉は35歳になっても唐揚げやハンバーグという子供の好きな食べ物が好きだ。
接待の場では大人しく、大根サラダや名の知れぬおしゃれメニューを食べるが、美緒が提案してくれたからありがたい。
注文の品が続々とテーブルに並ぶ。
美緒の前にジンライム、篤哉の前にはレモンサワー。
軽く乾杯して口をつける。
「お酒苦手じゃなかったですか?」
「あんま強くないけど、飲まないのもカッコ悪いし」
「そうですかね?強くないのにあんまり飲んじゃダメですよ」
「でも、高橋は飲むでしょ?」
「わたしは飲みます、けっこう飲みます」
この顔面で、意外に酒豪。
お笑い好きもそうだが、これがギャップ萌えとならないのが損である。
「伊藤さん、オフの日何してるんですか?」
「テレビの録画消化。最近2時間番組多くね?」
「わかります。容量の圧迫がすごい」
「高橋は?」
「伊藤さんだから言いますけど…お笑いライブとか」
「マジで!?一人で!?」
「一人です」
「…ぶっちゃけナンパとかされない?」
「めちゃくちゃ警戒してるとされませんよ。とにかく真顔」
「お笑い見に行ってるのに?」
「そうです、心で爆笑です」
「あれじゃん、あの…お客さん五人全員笑わせなきゃいけないやつ、なんだっけ」
「イロモネア?」
「それ!」
美緒は真顔のまま流れるように喋る。
場の空気を悪くしないようにいつもヘラヘラ笑っている篤哉としては、その媚びていない感じが少し羨ましい。
でも、笑いたくても笑えないのは辛そうだ。
唐揚げを運んできた店員に、篤哉はレモンサワーのおかわりを頼んだ。
「大丈夫ですか?2杯目って」
「まだ大丈夫」
「潰れたらお持ち帰りしますよ?」
ごふっ。
卵焼きが器官に入りそうになった。
超美人の悪い冗談は心臓にくる。
「面白いけど、高橋が言うとすごくなんか、その気になるやついるよ」
「伊藤さんだから言うんですよ、私が冗談言う相手なんてなかなかいませんよ」
「ああ、まあ俺は本気に取らないからね」
「…そういうとこですよ本当、あーあ」
美緒はぐっとジンライムを飲み干す。
「次、ハイボールにしようかな」
「人のこと言えないけど、ほどほどで頼むよべっぴんさん」
「それはフリですね?」
「違うわ」
楽しい。
こんなに楽しい子なのに、毎日あんな地味な服で黙り込んでるの、辛いだろうな。
今日くらいはたくさん笑って欲しい。
そう思って、ついつい、盛り上がりすぎた。
「終電間に合う?」
「無理ですね」
「…ごめん、タクシーも奢るわ」
散々飲んで食べて酔っ払って、少し酔いを覚まそうと公園のベンチに座った。
美緒が自動販売機の缶コーヒーを買ってくれる。
「ブラック微糖ですよね」
「よく知ってるな」
篤哉が仕事中によく飲んでいるもの。
美緒もカフェラテの缶に口をつけている。
「今日、楽しかったです」
「そりゃ良かった。高橋にはいつも頑張ってもらってるし」
「頑張りますよ。伊藤さん覚えてます?」
「ん?」
「入ったばっかりのとき。私手が速いから、仕事すぐ終わっちゃって、サボってるって怒られたとき」
「ああ、あったね」
「伊藤さんすぐかばってくれましたよね。そのあと仕事振ってくれて。ゆっくりやって、って言ってくれたし」
「うん」
「いい人だなと思って」
「そうね、俺いい人なのよ」
「自分で言う?」
「いっつも、いい人。いい人止まりよ。恋愛もさぁ、いい人なんだけどつって振られんの」
酔いのせいもあって、言わなくていいことを言ってしまう。
「彼女もさぁ、こっちは結婚すると思ってたら、あっさりいなくなって。こんなにいい人なのに」
「伊藤さん彼女いたんですか?」
「去年振られた話してんの」
「引きずっている…」
「うるせえ」
公園の大きな時計が0時を告げようとしている。
シンデレラだったらタイムアップだ。
かぼちゃの馬車ならぬタクシーを拾わなければ。
「伊藤さんはいい人だけど、うーんと、優しいから自分が傷つく方を選んじゃうんですよ」
「あ、そういう風に思われてる?」
「ちゃんと自分で考えて、自分の言葉で私のこと励ましてくれたじゃないですか。借り物の言葉じゃなくて、その場しのぎでもなくて。優しくないと出来ませんよ。あれ嬉しかった。頑張ろうって思ったし、私、貴方に褒めて欲しくて頑張ったんです」
「…頑張ってるな、とは思ってた」
「好きな人に、いいとこ見せたいじゃないですか」
「うん、わかる」
「見てくれてました?」
「見てたよ、見てたけど、えっちょっと待って俺に見せたかったの?」
「そうですよ」
「…いいところを?」
「もっかい言いましょうか?好きな人にいいところ見せたかったんです」
「…俺に?」
「私伊藤さんにだけ自分から話しかけるのに、全然わかってないし、唐揚げ好きなのも知ってたから今日頼んだのに、どんだけ鈍いんですか」
「いやだって、高橋が俺のこと好きとか、思い上がりも甚だしいしそんな発想にならないですよ」
篤哉はいたたまれなくなって立ち上がると、パーカーのフードをかぶった。
「なんで突然のMr.Parker Jr.?」
背中にかけられる美緒の声。
「いたたまれないんだよ」
「前見えないでしょ」
「見ないで」
嬉しい、いや恥ずかしいが少し勝つ。
10も年上の男がこんなふにゃふにゃな顔してるなんて。
いつからだ?
いつからそんな風に思われてた?
「スキあり」
回り込まれて、ぐい、とフードを掴まれた。
「というか、スキだらけ」
身長170センチと、身長165センチ。
ちょっとヒールの高い靴を履けば追い抜かれてしまう身長差。
フードを引っ張られて、5センチ差がなくなって、篤哉の唇が柔らかいものに触れる。
声が出ない。
温かくて柔らかくて、微かにカフェラテの味。
キスされたのだと気がついて、爆発したような勢いで身体を離した。
「なっ、こ、えっ」
なんでこんなことを、と言いたかったのだが舌が回らない。
心臓がばくばくする。
状況処理が追いつかない。
「好きだからです」
「いや順番!」
順番が違うというか、なんというか、全部違う。
「違くね?」
「何が」
「俺のこと好きなの?」
「好きです」
「…まじで?」
「冗談で言わないですよこんなこと」
「だって俺、俺だよ?」
「貴方だからですよ」
パーカーのフードを、まるで、結婚式の花嫁のベールみたいに神聖な動きで上げられた。
10歳年下の、ちょっとそんじょそこらにはいないレベルの美人が、真っ直ぐに篤哉の目を見てくる。
王子様かな?という凛々しさで。
「ちょっと、あのね、俺も好きな人の前でいいとこみせたいわけですよ、今どうよ?かっこ悪くない?」
「かっこいいですよ」
「どこがよ」
「かっこ悪いところも、逃げずに見せてるところです」
「…完敗です、お手上げ、もう白旗」
「なんの勝負?」
「何言っても無駄じゃん」
「無駄ですね、絶対逃がさねえぞとは思ってますし」
「いや怖いよ」
「…好きな人の前でいいとこ見せたいって、言いましたよね」
「言いましたね」
「私ってことでいいですか?」
「そうですね、そうです、はい」
「私に言うことありません?」
「君あれだね、けっこうなドSね」
「バレました?」
「その顔面でドS、似合いすぎるよ」
「お望みとあらば、ボンテージとか着ますけど」
「…いや俺そういう性癖じゃないし」
なんの話だ。
美緒の黒いボンテージ姿を妄想してしまって気まずくなる。
「まあ性癖のことは追々わかりますし」
「やめて、ちょっと色々妄想しちゃうからストップ」
「試してみるのが手っ取り早いならホテルに」
「コラ!冗談もほどほどにし」
フードをつかんで引き寄せられて、言葉を失う。
「冗談で言いませんよ、こんな恥ずかしいこと」
「…誘うにしてももっとあるでしょ?」
「わからないんですよ、どう言えば伊藤さんに刺さるのか」
「どう言われても刺さりすぎてもう黒ひげ危機一髪状態ですが」
「あとどこ刺したら飛びます?」
「…それは冗談だよね」
「そうですね」
ふふっ、と初めて美緒が笑った。
魔女の一刺し。
腰が抜けそう。
そのままもう一度キスされて、心の黒ひげが吹っ飛んだ。
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