プロローグ

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「早速、取材に入ります」  レコーダーを机の上に置き、メモ帳を開く。早く始めないと、今日中に帰れなくなってしまう。宿代も会社からは出ないだろうし、一泊とはいえ出費するのは痛い。 「ご連絡した通り、今日はイレーネ・ホルヴァインさんの話を伺いにきました」  その名を聞いてテオドールさんの眉が動いたが、彼は何も言わなかった。 「テオドールさんは、防衛戦争でパイロットとして戦ったんですよね」 「ああ、そうだ」  取材前に調べて知ったことだが、テオドールさんは第二次世界大戦においてもレジスタンスとして連合国側で戦闘機に乗っていたようだ。かなりの撃墜数を有するエース級のパイロットだったらしい。 「テオドールさんは、ホルヴァインさんと同じ部隊にいらっしゃったんですよね」  詳しい記録は見つけられなかったが、防衛戦争において国防の基幹を担った優秀な部隊だったらしい。そこの部隊長こそが、今回の取材の目的、イレーネ・ホルヴァインだった。数ヶ月前に政府の機密文書が開示されたことでその存在が明らかになった、防衛戦争時代の軍人だ。  しばらく待つが、返事が返ってこない。 「あの、テオドールさんはホルヴァインさんと」 「……ンディアだ」  彼がぼそりと呟いたが、何と言ったのか聞き取れなかった。 「すみません。もう一度お願いします」 「イレーネ・ガランディア少佐だ。あの頃は、ホルヴァインなどという姓ではなかった」  今度は、はっきりと聞こえた。確かに、開示された資料の中には、少数ながらガランディアという姓で記載されているものもあった。  どちらもよくある苗字ではないが、ガランディアはメレンで見られる姓、ホルヴァインは隣国ガトランタで見られる姓だ。彼女の姓が変わったのは、防衛戦争の後のこと。彼女は、防衛戦争での敗戦直後に、敵国ガトランタ帝国の軍人と結婚していた。 「確かに、空軍時代の記録ではガランディア少佐となっていますね」 「君は何年生まれかね?」 「1979年です」  突然の質問に戸惑いつつ、素直に答える。自分と同い年の人間なんて、さほど珍しくもない。 「そうか。あの戦争を知らない世代もそんなに大きくなったのか」  老人は、感慨とも溜息ともとれる声で、そう呟いた。  第二次世界大戦の直前、世界4位の大国ガトランタ帝国の侵略に対し、メレン共和国は2年間に渡り防戦を続けた。通称、防衛戦争だ。  その事実は、この国の教科書においてもわずか数行で取り上げられるのみで、世界的にもあまり知られていない。 「はい。今回、様々な資料に当たりましたが、特にイレーネ・ガランディアさんについての記述はほとんど見つけられませんでした」 「そうだろうな」  老人が頷く。イレーネ・ホルヴァイン。旧姓ガランディア。分かったことは、国防空軍で指揮官として精鋭部隊を指揮し、国土防衛に多大な貢献をしたということ、そして、敗戦後にガトランタのエースパイロットと結婚したということ。しかし、彼女の生涯については謎に包まれている。 「初めて少佐と会ったのは、1937年、転属先の基地でのことだった。ガトランタとの国境近くのフローデンの基地だ。あそこは、ガトランタ空軍の爆撃に頻繁に対応している精鋭部隊だった。隊長はヴィーン中佐、副隊長が、当時まだ大尉だったガランディア少佐だった。少佐は22歳だ。隊で3番目に若かった。俺は17歳になったばかりで、部隊で最年少だった。ションベン臭いガキだったよ」 「それから敗戦まで、ガランディアさんと同じ部隊にいたんですね」 「そうだ。転属してからすぐ、大規模なガトランタの攻撃があった。敵機は味方の4倍以上だ。勝てるわけがないさ。この戦いで、隊長だったヴィーン中佐が戦死した。相手は、ガトランタのゲランドだ」 「ガランディアさんと結婚した、ゲランド・ホルヴァイン大尉ですね」  取材にあたり、ゲランド・ホルヴァインさんについても調べたが、彼についても詳しい記録は残っていなかった。 「ああそうさ。奴は、ガトランタの中でも飛び切りの腕利きだった。戦場で会ったら逃げろ。少佐はいつもそう言っていた。それなのに」 「結婚の話は、また後で聞きましょう。ヴィーン中佐が戦死した後、ガランディアさんはどうなったんですか?」 「あの攻撃で甚大な被害を受けて、空軍全体が再編された。俺はガランディア少佐と同じ部隊になった。そこでの隊長は少佐だった。それからは、終戦までひたすら防戦の日々だ。一度だけ、ガトランタ軍を押し返したこともあったがな」  結局、ガトランタの攻撃により首都が陥落したメレン共和国は降伏した。そして、ガランディアさんはホルヴァインさんと結婚した。 「ガランディアさんが結婚してから、彼女に会ったりはしましたか?」 「1度だけな。結婚から半年ほどしてから、少佐がホルヴァインとともにメレンに来たことがあった。そのときに、仲間と一緒に会いに行ったんだ。いろいろと訊きたいこともあったからな」  ガランディアさんが結婚後にメレンに来ていたというのは初耳だ。 「ガランディアさんは何と?」 「大したことは何も言われなかったさ。少佐は、あいつと結婚してまるで人が変わったようになっていた。ただ、少佐は右腕を失っていた。少佐が戦争中に大きな怪我をしたことはなかったし、もちろん終戦時には右腕はあった。片腕じゃ、戦闘機の操縦もろくにできないからな」  ガランディアさんが右腕を失ったということも、事前の調査では分からなかったことだ。 「何があったのでしょうか?」 「さあな。向こうで何があったのかは知らない。でも、それからはもう少佐のことは諦めたよ」  やはり、分からないことだらけか。 「それと関係があるかは分かりませんが、ガランディア少佐について、このような話があったのですが。その、ガトランタの高官に体を売ったと」  怒られるのを覚悟で、今回最も知りたかったことを尋ねる。ガランディアさんの結婚については謎が多い。詳しく調べる中で最も気になったのがこの話だった。真偽のほどは分からないが、それらしき記述が一定数あったのだ。 「その話は、少佐の結婚後にかなり話題になったな。最初からガトランタのスパイだったとか、国を売ったとか、どいつもこいつも言いたい放題さ。戦争中はあんなに少佐のことを頼っていたくせに」  予想に反して、テオドールさんは怒ることもなく淡々と答えた。既に彼の中では、ガランディアさんのことについては整理がついているのだろう。 「実際のところ、どうだったのでしょうか?」  今回の記事の最大の目玉はそこにある。これだけは、何としても突き止めたい。 「分からんよ。ずいぶん後になって、捕虜になっていた軍人が解放されていたという噂は聞いたことがあるが、それが本当かどうかも分からん」 「そうですか。ありがとうございます。ガランディアさんが今どうなっているのかはご存知でしょうか。せめて、現在存命かどうかだけでも知りたいのですが」  第二次大戦でガトランタが敗北した後、メレンは独立を回復した。しかし、ガランディアさんの生死はおろか、ガランディアさんがメレンに戻ってきたのか、それともガトランタに留まったのか。それすら明らかでない。 「それも分からんさ。第二次大戦が終わってから調べてもみたが、結局分からず仕舞いだ。それに、独立する頃には、誰も少佐のことは語らなくなっていた」  そして、機密文書が公開されるまで、その名は歴史から消されてしまったというわけか。 「それでも、」  テオドールさんは言葉を続ける。 「この国には救国の英雄がいたんだ」  彼の目は、昔を懐かしむように遠くを見ていた。 「イレーネ・ガランディア少佐。俺が知る限り、間違いなく史上最高のパイロットだった」
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