元委員長は不良を憂う

2/4
8人が本棚に入れています
本棚に追加
/17ページ
 その日は本当にたまたま、休み時間に先生から雑務を頼まれたり書類を届ける別の先生を探したりと忙しくしていたために、自分の休憩時間を満足に取れなかった日だった。昼休みも終わろうかというギリギリの時間に慌ててパンを腹に詰め込み、授業が始まる寸前ということもあり誰もいない静かな男子トイレに駆け込んだところで、彼と出くわしたのだ。  出くわした、というには少々語弊がある。学ランの下に着込んだ白いパーカーのフードを頭に被った彼は、蛇口の水を出しっぱなしのまま、洗面台に身を乗り出すようにして凭れかかっていたのであった。 「三池くん?」  蛇口からシンクに水が落ちる音が延々と続く。彼はシンクに上半身を預けたまま動こうとしない。不意に背中が大きく上下して、げほ、と咳き込む音が聞こえた。様子がおかしい。 「三池くん! どうしたんだ」  明らかに気分が悪いようだった。慌てて駆け寄って、肩を叩く。まるでたった今まで接近に気付かなかったというように、びくりと肩を跳ねさせて、彼はこちらを向いた。 「……あ、安倍?」 「具合が悪いのか。保健室へ行った方がいいんじゃないか」 「いや、その……」  いつからこうしていたのだろう、生理的な涙で潤んだ瞳が一瞬俺の方を見て、そしてすっと伏せられてしまった。ほんの一瞬だけれど、その瞳はなんだか不思議な色をしているように見えて思わず言葉を失う。まるで、満月のような――。 「う……っ」 「三池くん」  吐き気があるらしい。真っ青な顔をして口を押さえた彼の背を擦ってやっても、えずくばかりで何も出てこない。触れた背中は制服越しだというのに熱く、どくどくと鼓動すら感じられるほどで、もしかして熱があるのではないかと思い至った。 「ちょっと失礼」  頭にかぶったままのフードを下ろして、額に触れてみる――だけの、つもりだったのだが。 「さ、さわるな……!」  俺が伸ばした手を払い除けて、彼は数歩後退った。  驚いて手を引っ込めたものの、絶不調の彼の体は払い除けた拍子にそのままバランスを崩す。危ない、と手を伸ばして、後ろにひっくり返りそうになった彼の体の下に滑り込んだ。固いタイルに尻を打ち付けて尾てい骨が粉砕したのではないかと思ったが、それよりも彼が頭を打ったりしていないかどうかの方が気がかりで、慌てて起き上がる。 「ごめん三池くん、大丈……」  ぶ、の音は空気に溶けて消えた。  俺の体の上で何とか受け止めた彼は、怪我はしていなかったものの白いフードがずり落ちて、いつもの金髪と……なぜかその間から、真っ黒な三角形の、なんだか可愛らしい動物の耳、のようなものがぴょこんと……耳? 「……ええと、その」 「……うっ……うえ……」 「あああ吐きそう!? 吐きそうなんだな!?」  いよいよ顔面蒼白となった彼が口を押さえたので、慌てて個室の方へと誘導する。視界にちらちらと入ってくる黒い……猫耳? のようなそれが非常に気にはなったのだが、正直今にも死にそうな顔をしている彼の介抱でそれどころではなく、そのことはいつしか頭の隅へと追いやられていた。  胃の中身を便器にひっくり返してぐったりと崩れ落ちたまま動かなくなった同級生を、一人でなんとか背負って持ち上げる。午後の授業はもう始まってしまっただろうが、この状態の彼をこのままにはして置けないし、後で先生に弁解すれば問題ないだろう。一応これでも優等生だし。よし、問題ないはずだ。ぐるぐる考えてパニックで真っ白になった頭でもほんの少しの理性が働いて、彼のフードは元の通りにかぶせてやる。力の抜けた人を一人背負って走ることがこんなに難しいなんて知らなかった。
/17ページ

最初のコメントを投稿しよう!