あなたへの手紙

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 あなたは誰ですか。  どこに住んでいますか。  名前は何ですか。  何才くらいの人ですか。  ああ、わたしはあなたのことを何も知らない。  あなたがどんな顔で、どんな声で、どんな性格の人かも、何も知らないのです。  わたしはここに一人でいます。この、古く薄暗い家に。家の中と窓から見える景色だけが、わたしの世界の全てです。  わたしはあなたに会いたくて、会いたい一心で、この手紙を書いています。  あなたがきっとこの手紙を読んでくれることを信じて。  あなたはこの手紙を拾うでしょう。そこは道端かも知れません。家の庭先かも知れません。どこかの木にでも引っかかっているのかも知れません。  あなたはこの手紙を見て、首をひねるでしょう。これは一体どこから来たんだろう?  その後、近くに風船を見つけるでしょう。割れているか、しぼんでいるかしている、赤い風船を。ああ、これは、この風船にくくりつけられていたのか。そう思うでしょう。  では、この風船はどこから来たんだろう。あなたは辺りを見回すでしょう。風の向きなどを調べてみるかも知れません。ただ、何となく惹かれる方向があると感じるでしょう。  あなたはすぐに風船が飛んで来た方向に向かうでしょうか。それとも今は何もしないでいるでしょうか。  それでも、あなたはこの手紙を捨ててしまうことはないでしょう。何気なくポケットにしまい込んで、そのまましばらく忘れてしまうでしょう。  それでも手紙はいつかポケットから出されるでしょう。小銭を出そうとした時や、洗濯をしようとした時など、ふとポケットを探った拍子に、この手紙はあなたの手に触れるでしょう。  あなたはこの手紙を出し、開いて中を見るでしょう。この文章を読むでしょう。  あなたはこれを読んで、何を思うのでしょうか? 何だかわけのわからないものと思うかも知れません。でも、あなたの心には何かが引っかかっている筈です。  それからあなたは心の奥に、その何かを引っかけたまま日々の生活を送るでしょう。朝も、昼も、夜も、仕事や勉強をしている時も、ご飯を食べている時も、お風呂に入ったり眠っている時も、わずかにわたしの存在を抱えているでしょう。  わたしの存在はどんどん重くなり、もしかするとご飯をあまり食べられなくなったり、よく眠れなくなったりすることもあるかも知れません。そんなことになってしまったらごめんなさい。  ある日、あなたは決意するでしょう。このもやもやをどうにかしたいと。そして自分の部屋を出て、あなたはわたしを探しに行くでしょう。  わたしの手がかりはこの手紙だけ。あなたはこの手紙を手に、道をあちこち進むでしょう。最初は迷いながら。でも進むうちに、確信のようなものがあなたの内に芽生えるでしょう。  あなたはしっかりとした足取りで、ある場所に向かって進むでしょう。そして一軒の家の前で、あなたは足を止めるでしょう。  こんなところにこんな家が建っていただろうか。そうあなたは思うでしょう。事実この家は、ずっと昔からここに建っていたかのように、古びた佇まいを見せているのです。  見覚えがない家なのに、あなたは何故か懐かしさを感じるでしょう。長いこと帰っていなかった実家に、久しぶりに戻って来たような感覚に見舞われるでしょう。  そして確信するでしょう。  この家に、わたしがいると。  あなたは玄関に立ち、戸を開けようとするでしょう。でも、そこには鍵がかかっています。どうしよう? あなたはしばし考えるでしょう。  それでもあなたは帰ろうとはしないでしょう。何か衝動のようなものに突き動かされて、あなたは鍵を探すでしょう。  どこに鍵があるのか、あなたには直感的にわかっていることでしょう。あなたの探したその場所に、確かに鍵はあるでしょう。あなたは鈍く銀色に光るその鍵で玄関を開け、中に入って行くでしょう。  家の中は暗く埃っぽく、冷たく静かな空気が淀んでいるでしょう。それを見てあなたは思うでしょう。ここに本当に人がいるのだろうか?  その時あなたの耳が、かすかな物音をとらえるでしょう。あなたは上を見上げるでしょう。その物音は、上の階から聞こえて来たのです。  あなたは階段を登るでしょう。暗い廊下をゆっくりと進むでしょう。そして一つの扉の前で立ち止まるでしょう。  あなたはとうとう、自分が目的の場所に着いたことを悟るでしょう。あなたは一つ深呼吸をして、扉をノックするでしょう。  そして──  あなたは扉を開けるでしょう。  その時のことを考えると、わたしの胸はドキドキしてしまいます。あなたがここへ近づいて来る足音、扉の前に立ち止まる気配、ためらいつつも叩かれるノック。その音が聞こえたら、わたしの心臓は跳ね上がってしまうかも知れません。  ああ、やっとあなたは来てくれた。その瞬間を思うだけで、わたしの目からは涙がこぼれて来ます。  それでもあなたが扉を開けた時、わたしはきっと、最高の笑顔で言うのです。いらっしゃい、と。  その日が来るまで、わたしはあなたを待っています。ずっとずっと、ここで。どんなに時間がかかろうと、あなたはわたしの前に現れる。あなたがこの手紙を手にしたその時から、それは決まっているのです。  待っています。  待っています。  待っています。  ずっとあなたを待っています。  さあ、そろそろ手紙を書き終えなくてはいけません。どこかにいるあなたに、一刻も早く届けるために。  まだ見ぬあなたへ。  名も無きわたしより。
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