アレックス・三木

3/4
前へ
/30ページ
次へ
僕の高校から十分ほど車を走らせると、メインストリートから少し裏道に入ったところに僕の弟妹が通う幼稚園と小学校がある。パパたちの方針でいずれもパブリックだ。パブリックスクールとはいえ、サンタモニカの中心地に住んでいるだけで、アメリカの中では十分富裕層の家ばかりだ。ビバリーヒルズやシリコンバレーには劣るけど。 「お兄ちゃん!おじいちゃん!ただいまあ!」 後部座席のドアを半開きにして待っていると、リサは元気いっぱいの声を出して飛び込んでくる。 「ただいまは家に帰ってからだろ、リサ。」 リサの後から車に乗り込んできたオマールは、今年の秋で一二歳になる。最近は九歳と六歳の妹にうんざりしてきているようだ。 「アレックス兄ちゃん!今日ね、パパの絵描いたの、見て見て!!」 末っ子のアニサは一番甘えん坊。まだまだパパたちが恋しい時期だ。A4サイズに切られた白画用紙には、肌色のクレヨンで描かれた二人のパパがニッコリと笑っている。二人の周りには花や蝶、太陽が明るい色で塗られていて、見ているだけで楽しくなってくる。アニサはいつでも、パパにべったりだ。まだ、パパと一緒にお風呂に入りたがる。リサは、二年ほど前にパパとのお風呂を卒業した。今はパパべったりな女の子たちだけど、これから難しくなるだろう、とパパとパパがこの前話しているのを聞いた。男二人で娘を育てるというのは、色々プレッシャーや不安が大きいみたいだ。  「おじいちゃん!明日は遊園地行こうね!!」 とリサ。 「遊園地はパパたちと行ってきい、じいちゃん、ばあちゃんは、もう年寄りじゃけん。」 ハイカラでポップなサンタモニカのダウンタウンにフォルクスワーゲンを走らせ、西日本の方言でしゃべっているおじいちゃんがいる子どもなんて誰もいない。つまり、僕たちの一家は一風変わっている。 僕は、自分の出自について良く知らない。だから小学校に入学したばかりの時、家系図を作る宿題があって少し苦労した。僕が知っていたのは、僕の生みの親がドラッグの問題を抱えていた、ということ。生みの親のそのまた親たちはどんな人なのか、僕はもう知る由もない。一応パパに調べてもらったところ、僕はどうやらドイツ系アメリカ人ということになるようだ。せっかく調べてもらったんだけど、その宿題は本当のことを書くことにした。ドラッグの問題で四歳の時に僕を手放したアメリカ人の父親と母親じゃなくて、日本人の二人のパパに繋がる家系図を提出した。その時の先生がその宿題を微笑んで受け取ってくれたのを子ども心に覚えている。それが、僕はパパの息子なんだって、初めて実感した出来事のような気がする。 そして僕は、家族の中でも唯一の白人系だ。ほとんど白に近いプラチナブロンドの巻き毛で目の色はグリーンが少し混じった、スカイブルー。背は家族の中で一番高くて、十七歳で174㎝。十五歳の時に康平パパを抜かしてしまった。後一年でもう少し伸びてくれるかも。  次男のオマールはエジプト出身。チョコレート色の肌に、僕と同じ巻き毛。こいつの方は黒い巻き毛だけど。ちなみに家族一番の美形で、去年の学校の文化祭では、チャーミング王子に扮していた。演技力はお父さん譲りですね、なんて文化祭の本番の後には褒められていた。二〇一九年の実写化が無ければ、いつかの将来、メナ・マスードの代わりにオマール・ミキがアラジンをやってたかもしれない。弟がハイスクールに入れば、たちまち女の子たちが放っておかないだろう。ま、僕だって女の子に困ってるわけじゃないけど。  長女で三番目の子どもリサは日本から来た。兄弟のなかで唯一パパたちと同じ人種だ。兄の目からすると、十分可愛いと思うんだけど、本人は僕やオマールの深い顔立ちに憧れてるみたいだ。日本のおしとやかで大人しい女の子はアメリカの男子に人気があるのに。日本の女の子は優しいし、下品なことも言わない。そして、ほっそりした子が多い。リサも僕ぐらいの年頃になったら、難なくボーイフレンドの一人や二人作るんじゃないだろうか。そして、ピアノのクラスは一番こいつが続いた。僕は三か月でやめ、オマールは最初のレッスンが終わった帰りの車で、駄々をこねて行かなくなった。リサは打って変わって、学校から帰ると、毎日二時間はベヒシュタインのグランドピアノで練習している。九歳だけど、もうベートーベンのソナタに入っている。拓也パパもピアノをずっとやっていたから、一人でも続けてくれる子どもがいて嬉しく思っているようだ。  最後のアニサはインドネシア人。オマールと同じ肌の色をしてる。六歳の末っ子の女の子を想像してもらえるとわかると思うんだけど、非常に甘やかされている。僕らも、いけないとは思いつつ、ついついアニサを甘やかしてしまうんだけど。今年、学校に入ったばかりだ。アメリカは移民の国とはいえ、僕の街に東南アジア系の子どもがいることは珍しい。最初は皆と違う見た目を気にかけていたみたいだけど、徐々に友達も作っているようだ。初めての学校で苦労するのは、我が家のお決まりみたいなものだ。いくら自由の国とはいえ、僕たちのような家族はそうそうない。黒人やヒスパニックの子はいても、インドネシア人は、クラスにはいない。しかもうちは、パパたちの方針でパブリックスクールに通っている。その気になれば、ヨーロッパの王子様が行っているような、スイスの寄宿学校だって、入れるのに。  そしてパパ。パパというと、どっちのパパかややこしいから、まずは、拓也パパ。説明はもう不要かもしれないけど。二〇二〇年、僕が生まれる少し前にアメリカに渡り、ロサンジェルスで食品会社の営業を続けながら、アマチュア劇団に入って、ハリウッドのオーディションを受けてきた。スクリーンデビューは二〇二四年。最初の役は主演のクリスプラット率いるコミカルな犯罪集団のうちの一人。注目されたのが、同じ年に公開になった、ニコールキッドマン主演の映画。中年女性が古い友人や思い出の場所を訪れるという映画で、パパはニコールの昔の恋人の子どもという設定だった。そして、世界にタクヤ・ミキの名を知らしめたのが、二〇二五年公開の「ビースト・イン・ザ・ダーク」。パパはこの時すでに、二八歳だったけどレイプの後遺症に苦しむティーンエイジャーという役どころを演じ、日本人初のアカデミー主演男優賞にノミネートされた。結果は残念だったが、受賞したジェイクギレンホールと同じか、もしくはそれ以上に話題になった。 家族で話す以上に僕は他人からたくさんパパの話を聞かされてきた。 「二八歳で高校生の役をやるなんてな。」 「シシースペイセクだって、二七歳でキャリーをやって、スクリーンデビューしたさ。」と答えていた。 そして、次の年には「ハリウッド・ビューティー」という作品を主演し、二年連続のノミネート。ただし今回は助演男優賞だった。ドラッグとキャスティングカウチが横行していたハリウッド黄金期に、マイケルJ フォックス演じる大物プロデューサーと対決するという役だ。この作品でパパは主演のマイケルと二人でアカデミー賞を受賞した。ちなみに、パパの身長はマイケルとほぼ変わらない。でも、この年の話題は全てマイケル・J・フォックスに持っていかれてしまった。こんな大きな役をこなしたこともそうだし、マーティー・マクフライの面影0の悪役がかなり評価された。この年には、「レイプの役は当分こりごりだ。」ともインタビューで言っていた。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加