十二月五日 レモン色の風船

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十二月五日 レモン色の風船

 週末の今日、アルバイトは正午過ぎからだった。  クリスマス、正月とイベントが続くこのシーズンは生花店のかき入れ時だ。実春は少し前にそう言っていた。  このごろの実春は配達やフラワーアレンジメントの仕事で店を開けることが多かった。今も旭はひとりで店の留守番をしているところだ。  留守番といってもレジの前にただ座っていればいいだけじゃない。花屋の商品は生き物だ。やることはいくらでもある。  旭は店に飾られた鉢植えを点検し、枯れた葉や花びらがないかどうか確かめていた。  クリスマスが近いため、店にはポインセチアやクリスマスローズの植木がいくつも置かれている。作り置きの花束や寄せ植えもクリスマスをイメージしたもので、松ぼっくりやサンタクロースのオーナメントを組み合わせたり、緑と赤のリボンが結ばれていたりする。  ひとりきりの淋しいクリスマスイブになるとわかりきっているのに、クリスマスの色彩に溢れたこの空間にいると心がわくわく浮き立ってくる。  せっかくだから小さなケーキを買おうかな。ケーキと、ここでちょっとした花束を買って部屋に飾れば、それだけで少しはクリスマスらしくなりそうだ。  ほんとうは実家に顔を出したかったが、旭が家を訪ねたところで父親も新しい妻も喜びはしないだろう。 「ただいま。ごめんね、旭くんに任せっぱなしで」  外の空気を引きつれて、実春が店へもどってきた。エプロンの上に羽織っていたコートを脱ぐと、実春がいない間に受けた花束の予約の確認を始める。 「忙しくって大変ですね」  このところ実春は少し痩せたように見える。それに反比例するようにその顔つきは生き生きとしているのだが。 「うん、まあ、大変って言えば大変だけど、稼げるときに稼いどかないとね。それに、好きでやってる仕事だからきつくはないし、むしろ、忙しいほうが元気が出るな。……旭くんはどう? ここの仕事に疲れてない?」 「疲れてないですよ。おれ、花が好きみたいで、ここにいるとすごく落ちつくんです」  ひとりきりのアパートは孤独だ。学校は息苦しい。心が安らぐのは『Mirabilis』にいるときだけだ。  植物たちはいつも優しい。花も植木も手をかければそれに応えて美しく、長く、鮮やかな色彩で目を楽しませてくれる。旭は植物たちの誠実さが好きだった。 「将来、花屋さんになろうかなって思うくらい……あっ、そんな簡単なものじゃないのはわかってますけど」  実春の仕事を軽く見ているように思われただろうか、と慌てて言葉をつけ足す。実春は気分を害したようすもなく、温和な笑みを浮かべて旭を見つめている。  不思議だ。  父親相手や学校にいるときは上手く気持ちを言い表せないのに、ここにいるとごく自然に言葉にできる。相手が実春のときだけじゃなく、店の客が相手でも緊張はするが龍生に話しかけられたときのようにまともに喋れなくなることはなかった。 「いいと思うよ。花屋さんの資質は、花が好きで、花に愛情を注げることだって思うけど、そういう意味じゃ旭くんはじゅうぶん素質があるよ。もしも、本気で花屋さんになりたいんなら、ここで働いている間に何でも訊いて。おれで教えられることがあれば教えるからさ」  優しい笑顔で言われて目の奥がじわっと熱くなった。浮かんだ涙を悟られないように俯いて誤魔化す。 「……ありがとうございます」 「お礼なんていいよ。安いバイト代で一生懸命働いてくれてるからさ、せめてもの埋め合わせ」  そう言って、旭の頭をぽんと叩く。 「疲れてないんだったらいいんだけど、なんだかこのごろの旭くん、元気がないように見えるから。何かあったのならお兄さんに話してみなさい。あんまり青春じみた悩みは、お兄さんちょっとついていけないかもしれないけど」  態度には出していないつもりだったが、暗く澱んだ気持ちが態度に滲み出ていたらしい。  ふざけたような口調の中に労りの響きを感じ取り、旭はますます泣きたくなった。 「……たいしたことじゃないんです。あの、学校に憧れの人がいるんですけど、その人にあんまり好かれてないみたいで……。それがちょっと切ないっていうか……それだけです」  好かれてないだけならまだいい。わざわざ近寄ってきては心に爪を立ててくる。それが哀しい。 「旭くんを好きにならないなんて、その人、よっぽどひねくれ者だね」  実春は両腕に腰をあてると思いきり顔をしかめた。 「お兄さんとしては、そんなひねくれ者は旭くんにふさわしくないから、もっと素直でいい子を好きになりなさい、って言いたいなあ」 「違うんです。その人は誰にでも好かれるような人で、誰とでも上手くやれる人なんです。……おれが人に好かれない性格っていうだけで」 「何を言ってるの。旭くんみたいな素直な良い子が苦手だなんて、そんなのよっぽどのひねくれ者だよ」  素直な良い子なんて他人から言われたのは初めてかもしれない。  実春が本心から言ってくれているのが伝わって、胸がほのかに温かくなった。
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