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「お先に失礼します」
アルバイトを終えて店を出ると、冬の空気が頬を冷やした。
温度が高いと花が保たないため、店には足元用の小さなヒーターしか置いていない。店内も特に温かいわけじゃないのだが、風があるのとないのとでは体感温度が全然ちがう。
旭はジャケットのフードを被った。冷えた指先へはあと吐息を吹きかける。
商店街はすでに夜に包まれている。仕事帰りらしいサラリーマンや、商店街の飲食店に向かうグループの姿がちらほら目につく。
あの人、まだバイト中なんだ。
斜め向かい――正確には『Mirabilis』の正面から数えて左三軒隣の店の前。トナカイの着ぐるみが風船を配っている。
子供の姿を見つけてはさっと風船を差し出し、求められるままに握手をしたり、抱きつかれるままになっている。その姿が微笑ましくて、寒さも忘れてトナカイを見つめる。
ふいにトナカイの鼻面が旭へ向いた。
視線が合う。
相手は着ぐるみだ。正確な視線の方向などわかるはずがない。しかし、旭はそう感じたのだ。
トナカイは風船を差し出しかけていた手をぴたっと止めると、ずんずんという足音が聞こえそうな大股で旭へ向かって歩いてきた。
旭は盛大に狼狽えた。
どう見てもトナカイは旭へ向かって歩いてくる。後ろに誰かいるのかもと思って振り返ったが、そこにあるのはバケツに入った花々と『Mirabilis』の入り口だけだ。
トナカイは旭の前でぴたっと止まった。右手に握っている風船の束がゆらゆらと揺れている。
「あ、あの、な、何か……?」
いささか怯みながら訊ねると、トナカイは手にしていた束の中からレモン色の風船を選び取り、旭へ向かって差し出した。
「え、あ、く、くれるの?」
どうやら風船が欲しくて見つめていると勘違いされたらしい。
差し出された手は蹄ではなく焦茶色の手袋だった。蹄では風船が持てないから当たり前かもしれない。
旭は恐る恐る手を伸ばして風船を受け取った。レモン色の風船が冬の夜風にふわりと揺れる。
「あ、ありがとう」
小さく微笑んで礼を言ったがトナカイは無言だった。風船を片手にただ黙って旭を見下ろしている。
「あ、あの、じゃあ……」
これ以上どういう反応をすればいいのかわからず、旭は風船を片手にアパートへ向かって歩き出した。
途中、何度か振り返ってみたが、トナカイは『Mirabilis』の前に立ち尽くしたまま、ずっと旭を見送っていた。
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