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十二月七日 嫌いになりたい
「茅野ちゃん、おっはよー。元気してるー?」
ホームルーム前、旭が数学の教科書を無意味にながめていると、頭上から明るい声が降ってきた。
ついさっきまで仲間たちとにぎやかに騒いでいたはずなのに。旭は肩をびくっと震わせた。
「……おはよう」
うつむいたままか細い声で教科書に向かって呟く。
椅子を引く音が聞こえて、龍生が前の席に腰を下ろしたのが見なくてもわかった。
「相変わらず陰気くさいねー、茅野ちゃんは。そんなんじゃお友達できないよー」
龍生の呆れと揶揄を含んだ声に、周囲からくすくすと笑い声が洩れる。
(鳥谷の奴、またやってるよ)
(飽きないねえ、あいつも)
笑い者になっていると思うと、頬が痛いほど熱くなり、ますます顔が下を向く。
人見知りの激しい旭は、龍生のように誰とでも親しげに会話することはとてもできない。でも、相手が龍生でさえなければちゃんと相手の顔を見て会話をするくらいはできるのだ。例えば実春に対するときのように。
龍生を前にすると鼓動が狂い、喉を絞められたように苦しくなり、言葉は胃の奥へ封じこめられてしまう。
龍生の視界に入っていると思うだけでたまらなく恥ずかしくなる。同い年の少年だというのに、あまりにも自分と違いすぎて。
「茅野ちゃんって、ココア好き?」
「……こ、こあ?」
かすれた声で繰り返す己を馬鹿みたいだと思う。もう少し気の利いた――せめて「どうしていきなりココアなのか」くらい問い返せばいいものを。
「ココア、好き?」
龍生は繰り返した。
「……普通」
「普通かよ」
なぜだかがっかりしたような声だった。ココアがどうしたと言うんだろう。
そういえば、昨日、ホットココアをトナカイさんにもらったっけ。旭は昨日の出来事を思い出した。
おかしな、そして、優しいトナカイ。あの中に入っているのはどういう人なんだろう。アルバイトをしているということは恐らく高校生以上のはずだ。大学生、あるいはフリーター。それとも旭と同じ高校生。
あの大きく重そうな着ぐるみを身につけて長時間立っているのだ。たぶん男だ。
ひょっとしたら友人になれるかもしれない。
風船とホットココアをもらっただけ。それだけの繋がりだったが、旭が友人になりたいと望んで動けば、優しいトナカイは友人になってくれるかもしれない。
だけど。
もしも友達になれても、すぐに嫌われて終わり、かな……。
父親のさも疎ましそうな目つきと声を思い出して、形を成しかけていた希望はあっさりと霧散して消えてしまった。
「あのさあ……」
龍生が口を開くと、ついびくっと肩が揺れる。旭は言葉を先回りするように鞄から財布を取り出した。
一枚の五百円玉を龍生の前へおく。
「なにこの五百円玉」
「……今日はこれだけしか持ってないから」
金を無心する声を聞きたくなかった。
龍生はすぐに言葉を返さなかった。龍生を前にしてただでさえ荒くなっていた心臓がいっそう荒くなる。耳のすぐ側に心臓があるかのようだ。
これだけでは足りないと言われるかもしれないが、ほんとうに五百円しか持ってきていない以上どうしようもない。
「誰も金貸せなんて言ってないだろ」
抑揚のない声だったが、旭はそこに怒りを感じ取った。
でも、いつもそうじゃないか……。反感がこみ上げる。
なのになぜ責めるように言われなくてはならないのか。やり場のない腹立たしさが身体の奥にわだかまっていく。
龍生は親指と人さし指で硬貨を抓むと、思い切りよく弾いた。薄っぺらい硬貨が独楽のようにくるくると机の上を回る。
旭は視界を動く銀色の独楽をじっと見つめていた。龍生がどういう表情をしているのか、わからないし知りたくもなかった。
大きな手の平が回る硬貨をいきなり叩きつけた。乱暴な物音に教室中が一瞬、静まり返る。
「ちょっと、どうしたの龍生」
この声は歩だろうか。うつむいたままでいる旭に確かめる術はない。
「おまえ、本気でムカつく」
吐き捨てるような口調だった。
がたんと椅子の動く音が聞こえて、龍生の気配が遠ざかる。すぐに龍生の声が交じったにぎやかで楽しげな会話が始まる。
笑い声は目に見えない膜となって旭を彼らの世界から切り離す。すぐそこにある世界。決して入っていくことのできない世界。
旭は机に残された五百円玉を無言で見つめていた。
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