十二月七日 嫌いになりたい

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 四時限目が終わると、旭は誰とも目を合わせないようにして教室を出た。  向かった先は東校舎の屋上。屋上のドアは昼休みの間だけ解放される。  寒風の吹きすさぶこの季節、屋上で昼食をとる者はほとんどいない。ひとりになるにはうってつけの場所だ。  屋上へ出ると、十二月の風が吹きつけた。思った通り誰の姿もない。  旭の背よりもずっと高いフェンスの向こうに青空が広がっている。  旭はフェンスまで歩いていくと、それを背もたれにしてコンクリートへしゃがみこんだ。  昼食用の五百円玉は手元に残ったのに、こういうときに限って少しも食欲が湧いてこない。旭は購買で紙パックの牛乳をひとつ買って屋上へやってきた。  (おまえ、本気でムカつく)  苛立った声が耳の奥へ澱となって残っている。  言われる前にと思って金を出しただけなのに。旭の言動の何が気に障ったのか少しもわからない。  ちゃんと目を見て対峙していたら、少しは彼の心情を読み取れたかもしれない。なのに、あのとき旭はずっと下を向いたままでいた。  牛乳の小さなパックにストローを突き刺し、ゆっくり啜る。  今朝までは実春やトナカイの与えてくれたぬくもりが心を温めてくれていたのに。今はまるで曇天の冬空のように寒々としている。  旭は牛乳を飲みながら、空をぼんやり見上げていた。 「……さむ」  セーターからはみ出た指先へ息を吐きかける。凍えた指先を温めてくれた缶のココアは今はもうない。  今日はアルバイトもないので、授業が終わったら家へまっすぐ帰るだけだ。  実春にも、トナカイにも会えない。  旭は膝を抱えて、背中を丸めた。  どのくらいそうしていたのか。 「龍生、いったぞ!」 「オッケー! まかせてちょうだい」  旭の心を暗色に塗りつぶしたクラスメートの声が耳へ届き、心臓がどくりと上擦った。  思わず立ち上がってフェンス越しにグラウンドを見下ろすと、男子生徒たちがサッカーのコートで仔犬のように走りまわっていた。  その中に龍生もいる。昼食を食べ終わり、仲間たちと共にグラウンドへ飛び出したらしい。 「龍生、がんばって!」  グラウンドの隅には応援に回った女子たちの姿があった。  龍生は羽が生えているかのような俊敏さでコートを駆け抜け、巧みに相手からサッカーボールを奪う。仲間へ素早くパス。返ってきたボールをかろやかにゴールへ運ぶ。  これまでにも体育の時間、龍生が活躍する姿は何度となく目にしてきたが、あまりじっと見つめてしまうと嫌がられそうでちらちらとしか目にしたことがない。  旭はフェンスに指先をひっかけ、グラウンドを颯爽と駆ける龍生を見つめていた。  その姿へ湧き上がるのは切ないくらいの憧憬だった。  どうしても嫌いになれない。  瞳が自然と追い求めてしまう。彼を見ないようにするにはいつも意志の力が必要だった。  嫌いになりたい。  嫌いな人間になら馬鹿にされてもここまで心が痛まないだろうから。  目の奥が熱くなり、じわっと涙がこみ上げてくる。  悲しかったわけじゃない。いつどこで見たかも思い出せない懐かしい風景に出くわしてしまったときのようなやるせなさが胸に満ちていた。  涙をこすってもう一度グラウンドへ目を向けると、仲間たちから外れてひとり立ち止まっている龍生の姿が目に映った。  龍生は顔を上げて屋上を――旭を見つめていた。屋上とグラウンド。なのに、確かに目と目が合った。  旭は思わずその場にしゃがみこんでいた。見ていたことに気づかれた。旭の視線を果たして龍生はどう思ったのか。  想像すると胸を染める暗色がいっそう深く濃くなった。
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