十二月一日 憧れの人

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「お、おはよう」  緊張のあまり強張る舌を無理やり動かして、先ほどよりもまだ多少は大きな声で言った。 「茅野さ、人と話すときくらい顔上げろよ。すっげー気分わりぃ」  旭がぎくりとして顔を上げると、龍生の不機嫌そうな顔がすぐ間近にあった。龍生は旭の机に頬杖をつき、旭を睨むように見つめていた。 「……あ、ご、ごめ……」 「おまえってほんとに俺と同じ男なん? そんなぐだぐだなら、取るもん取ってアサコに改名すればー?」  揶揄をたっぷりと含んだ口調に、教室のあちこちからくすくすと笑い声が洩れる。  クラスメートから注目されていると気づいた瞬間、頬へかっと血が昇った。反射的にふたたび俯く。 「なー、茅野ちゃんさー、俺、財布忘れちゃって困ってんのよ」  まただ。これまでにも同じような科白で何度も金を持っていかれている。  一回の額は五百円から千円くらいだったが、親からの決して多いとは言えない仕送りでやりくりしている旭にとっては、たかが千円でも大金だ。重なれば食費を削るしかなくなる。  断ればいいだけかもしれない。今まで貸した金だって返して欲しいと言うべきなんだろう。  それでも返してもらえないのなら、教師に相談するなりなんなりと対処法はあるのだ。  なのに唯々諾々と龍生に金を貸し続けている。  教師に言いつけたりすれば龍生に嫌われるかもしれない。今だってじゅうぶん嫌われているのに、これ以上は印象を悪くしたくなかった。  どれだけ意地の悪い言葉を投げかけられても、どうしても龍生を嫌いになれない。  快活で陽気な人気者のクラスメート。実の父親にすら疎まれている旭とは対照的な少年。  龍生みたいになりたい。いくら望んだところで叶わない願いだとわかっていても、そう願わずにはいられなかった。 「茅野ちゃんは優しいから、可哀想な俺を見捨てたりしないよね?」 「……いくら」 「んー、千円でいいよ」  旭は鞄から財布を取り出すと、一枚だけ入っていた千円札を抜き出した。龍生はそれをさっと奪うと、制服のポケットから縦長の財布を取り出して、そこへしまった。 「ありがと、茅野ちゃん。愛してるわ」  にっこり微笑むと、財布を軽く振って仲間たちの元へもどっていく。 「茅野ちゃんからおこづかいもらっちゃったー」 「もらっちゃったー、じゃないでしょ。後でちゃんと返しなさいよ」 「おまえ、財布忘れたって言っといて、目の前で財布出すなよ。この外道」  龍生を責める声が上がるが、本気で言っていないのは笑っている顔から一目瞭然だ。  旭は早くクラスメートの関心が他へ移ることを祈りながら、肩を窄めてじっとしていた。
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