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十二月二日 色とりどりの小さな空間
授業が終わって校舎を出ると、やっとまともに呼吸ができる。
十二月の夕方。清冽な空気が肺を満たし、心の澱みが少しだけ薄れた気がした。
旭は校門を出ると、息をひとつついてから歩き出した。電車に乗り、ひとり暮らしをしているアパートの最寄り駅で降りる。
アルバイトのある日はこのまままっすぐ店へ向かい、アルバイトのない日は商店街のスーパーで買い物をしてから帰宅する。
それが高校二年生になってからの日常だった。
アルバイトのある日はいつもよりも足取りが軽い。誰もいない、誰ひとりとしておとずれる者のいないアパートへ帰るのは憂鬱だった。
アルバイトをしていれば店長の実春が傍にいる。店番を任される日も多かったが、店にはひっきりなしに客がおとずれる。孤独を感じている暇はない。
何よりも店には花がある。旭を否定することのない、手ひどい言葉を投げつけてくることもない、美しく鮮やかな色彩が。
旭はどこの町にもありそうなこれと言って特徴のない商店街を歩いていく。
青果店や精肉店、クリーニング店などの日常的な店から、若者向けの雑貨屋やセレクトショップなどが雑多にならんだ商店街。
旭のアルバイト先は商店街のほぼ中央にある。
店先に並んだブリキのバケツが目に入ると、頬に自然と笑みが浮かぶ。マシュマロを思わせる甘やかで柔らかな微笑。旭は気づいていないが、それは学校では決して見せることのない表情だった。
ブリキのバケツには色鮮やかな花たちがセロファンに包まれて、あるいは剥き出しのまま飾られている。
女王のように咲き誇る真っ赤な薔薇、花弁にグラデーションを描くダリア、カラフルなカーネーション、ショッキングピンクの愛らしいガーベラ、そっと身を寄り添わせているかすみ草。
誰かに買われるのを待つ切り花たちは、かよわげなかすみ草も艶やかな薔薇もいちように健気に見える。
旭はバケツの花たちへ柔らかい視線を注ぐと、硝子の引き戸を開けて店へ入っていった。
商店街の中にあるたった一軒の生花店。フラワーショップ『Mirabilis』――それが旭のアルバイト先だ。
旭が『Mirabilis』の存在を知ったのは、独り暮らしを始めてから間もなくのことだった。
平凡な商店街の中、さまざまな花や緑に彩られた生花店は単純に旭の目を惹いた。
綺麗だな、偶には花でも買って飾ろうかな。
そう思ったが、余った生活費は貯金するように心がけている。大学にかかる費用を出してもらえるかどうかわからないからだ。
せめて瞳に残しておこうと、花屋を通りがかるたびにバケツの花をゆっくりながめるようになった。
買うわけでもないのに毎日のように花をながめていく少年の姿に、実春のほうでも気づいていたらしい。
ある日、突然、
「君、花が好きなの?」
硝子の引き戸が開いたと思った瞬間、話しかけられていた。
その五分後、旭はこの店でアルバイトをすることが決定していた。
店番をしてくれる子がちょうど欲しかった、と実春は言っていたが、きっと嘘だ。旭があまりにも淋しそうに見えたから、彼は花に囲まれたこの場所を提供してくれたのだ。旭はそう思っている。
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