十二月二日 色とりどりの小さな空間

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「実春さん、こんにちは」  硝子のドアを開けながら声をかけると、中にいた青年が振り返った。  茶色の柔らかそうな髪と穏やかで優しげな顔立ちを持ったこの青年が『Mirabilis』の店長だ。名前は米村実春(よねむら みはる)。フラワーデザイナーの資格を持っているとのことで、店で花を売るだけではなく、結婚式用のブーケを作ったり、クラブやホテルなどへ花を配達してその場でアレジメントするのも仕事にしている。 「こんにちは、今日も一日よろしくお願いします」  実春はずっと年下の旭へ丁寧に頭を下げた。旭もつられて頭を下げる。 「よろしくお願いします」 「じゃ、早速だけど、おれ配達にいってくるから、そのあいだ留守番よろしくね。植木の様子を見て、だめそうな葉は取っておいて。花束の注文が入ったら、細かな指定を聞いておいてね」  実春は植木の手入れをしていたところらしい。千切った葉をゴミ箱に捨てて店の水道でさっと手を洗うと、ショーケースに入れてあった豪奢な花束を取り出してドアへ向かった。 「いってらっしゃい」  背中へ声をかけると、 「いってきます」  穏やかな笑顔で振り返ってくれた。たったそれだけのことで心の中が陽光に照らされたみたいに温かくなる。  家を出てからというもの、まともに言葉を交わすのは実春だけだ。もっとも家にいる間も父親とそれほど言葉を交わしていたわけではないが。  ひとりは淋しい。哀しい。  それでもやっぱり友人を作る気にはなれない。友人なんて作ったところで苛立たせてすぐに嫌われるだけだ。  例えばクラスメートの鳥谷龍生のように。  繊細でいて男らしい顔が脳裏に浮かび、表情が暗く翳った。  今日もまた龍生から馬鹿にされたことを思い出して、胸が澱む。当然のごとく、昨日貸した金も、これまで貸した金も返ってはこなかった。  ……どうして鳥谷くんはおれが嫌いなんだろう。これまでに何度となく抱いた疑問。  同じクラスとは言ってもろくに口を聞いたこともなかったのに。二学期になったらいきなり絡んでくるようになった。  整った横顔や、しゃんと伸びた後ろ姿へときどき視線を馳せていることに気づかれたんだろうか。  でも、だったらはっきり見るなと言いそうなものだ。いつも人のことをじろじろ見てきて気持ち悪いんだよ、と。  友達になりたいなんて大それたことは思っていない。彼が燦々と陽の光を浴びて育った大輪の花なら、旭は薄暗い路地に生えた雑草のようなものだ。つり合わないことくらい旭にだってわかっている。  友達になんてなれなくていい。せめて嫌われずにいたい。そのためにはどうしたらいいのか。  旭にはわからなかった。
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