十二月三日 その嘘は誰のため

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十二月三日 その嘘は誰のため

 チャイムが鳴り響き、昼休みの始まりを告げた。四時間目の授業が終わると、生徒たちは三々五々に思い思いの場所へ散っていく。  旭には昼休みを共に過ごすような相手はいない。今までは屋上や中庭など人の少ない場所を選んでひとりで食べていたのだが、このごろは節制のために昼食はずっと抜いていた。  今日は寝坊して朝食を取り損なったため、ちゃんと食べなくては放課後までもちそうにない。購買部へパンを買いにいこうと立ち上がったときだった。 「かっやのちゃーん、お金貸して」  いつもの調子で龍生が近づいてきた。旭は鞭で打たれたようにびくっと震えると、拳を握りしめながら視線を落とした。  今日こそは断ろう。そう思うのに石を喉に押しこまれたみたいに声が出てこない。 「俺、また財布忘れちゃってさー。ひょっとして俺ってドジっ子って奴?」  ふざけた口調に周囲から笑い声が上がるが、旭だけは笑えなかった。  笑い声の向こうに(あーあ、まただよ)という嘲りの声が聞こえる。いいようにたかられているのに、いつも断りもしないで素直に従っているのだ。馬鹿にされても当然だ。 「な……」 「え、なーに、きこえなーい」  旭は強張る身体を無理やり動かして、視線を前へ向けた。目の位置のずっと上に龍生の瞳がある。彼はあまり人がいいとは言えない笑みを端正な顔に浮かべ、至近距離から旭を見下ろしていた。 「きょ……は貸せない、から」  言い終わった瞬間、とんでもないことをしてしまったような気がして、心臓が痛いほど強く脈を打った。指が震える。  龍生の顔を見ていられずに、ふたたび視線を床へ落とす。  龍生など放っておいてさっさと購買部へ向かえばいい。自分で自分にそう言い聞かせてみても、緊張のあまり強張った身体は動いてくれない。 「えー、茅野ちゃん、どうしてそんな意地の悪いこと言うのー? 俺、なにか茅野ちゃんに悪いことした?」  龍生の言葉に周囲から「悪いことしかしてねーだろ」とヤジが飛ぶ。 「茅野ちゃん、意地悪しないで、ね? 悪いこと言わないから、素直に財布出しなって」  肩に手が回り、いつもよりずっと低い声が耳許で言う。草食獣が肉食獣の気配に対して敏感なように、旭は囁き声に獰猛な響きを感じ取った。我知らずびくっと肩が震える。 「もったいぶる子って、俺、嫌いだなー」  俯いた視界に大きな手がぬっと差し出された。  旭が震える手でポケットの財布を取り出すと、龍生はそれをすばやく奪った。  今日は帰りがけに買い物の予定があったため、千円札を五枚ほど入れておいた。全部持っていかれるのでは、とびくびくしながら見つめていたが、龍生は千円札を一枚抜き取ると財布を返してよこした。  ホッとするのと同時に自分で自分が情けなくなった。全額奪われなくたって金を盗られたことに変わりはないのに。腹を立てるどころか小さく感謝している。いったいどこまで卑屈なんだろう。
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