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「……帰ろっか」
どのくらい道端で見つめ合っていたのか。ひときわ冷たい風が吹いて旭が身を震わせると、ようやく龍生は口を開いた。
「あ、う、うん」
ふたりはふたたび夜道を歩き始めた。
無言で歩くふたりの間を冬の風が吹き抜ける。
ちらりと目線を上げて龍生のようすを窺ったが、龍生はやはり強張った顔で前だけを見つめて歩いている。
旭は溜め息を殺し、視線をアスファルトへ落とした。言わなければよかった。さんざん秘密にした挙げ句、憧れの人が龍生自身だったと知って、きっと呆れているのだ。旭は泣きたい気持ちを奥歯で噛みしめると、龍生に謝るために口を開いた。
「とり――」
「茅野ちゃん、手ぇ見せてみ」
「え?」
旭は思わず自分自身の手の平を見つめた。男にしては小さな手は、水仕事のせいで荒れている。龍生にもらったハンドクリームを塗るようになってかなりよくなったが、まだ完全には治っていない。
龍生は途惑う旭にはおかまいなしに旭の手をつかむと、目の高さまで持ち上げた。
「あー、まだ荒れてんね」
「あ、で、でも、だいぶよくなったんだよ。もらったハンドクリームつかってるから」
そう言うと、龍生の口許が綻んだ。
「つかってくれてんだ」
「う、うん。ありがとう……」
「茅野ちゃんのちっちゃい手が荒れてるとさ、すげえ痛々しく見えるんだよ」
龍生は手を下ろしたが、旭の手はまだ握られたままだ。
温かく大きな手は冬の空気にかじかんだ旭の手をゆっくりと温めていく。
「手ぇ冷えきってるじゃん。早く帰ってあったまろ」
龍生は旭の手ごとポケットに突っこむと、少し歩調を早めた。
旭はどうしていいのかわからずに途惑った目を龍生の横顔に向けた。先ほどまで強張っていた顔は、いまはどこか浮かれて見える。
もう怒っていないんだろうか。龍生の心がまるで読めない。
そういえばイブの日もこうやって歩いたっけ……。
旭は高校生にもなった男子は手をつないだりしないものと思っていたが、どうやらそういうわけでもないらしい。それとも、龍生が人と手をつなぐのが好きなのか、旭がよほど寒そうに見えたのか。
「あとさ、俺、三年になっても茅野ちゃんと同じクラスになれますように、ってのも祈ったよ」
「あ、お、おれも」
旭が慌てて言うと、龍生は目を細めて微笑んだ。手の平の熱が心にまで浸透したように胸の奥がじわりと温かくなる。
ほんとうに旭と同じクラスになれるように祈ってくれたんだろうか。この先も龍生の隣にいられると思ってしまっていいんだろうか。
いま旭がいるこの位置をもらえるのなら。そのためならなんだってするのに。
「じゃあ、絶対同じクラスだね。じゃなかったら、賽銭泥棒じゃん」
「ど、泥棒って……」
そんなことを口にしたら罰が当たりそうだ。旭は思わずびくびくしたが、龍生は気にしたようすもない。
鳥谷くんはいくつお願い事をしたのかな……?
旭と憧れの人とのこと。三年生のクラス割りのこと――どちらも旭に関することだが、まさかそれだけじゃないだろう。
きっと好きな人のことも願ったはずだ。
鋭い棘が刺さりでもしたかのように胸に痛みが走る。旭は空いているほうの手を左胸へ当てた。
龍生の好きな人について考えるたびに胸が痛くなる。もしも龍生とその人がつき合うことになったとしても、旭が龍生の友人なのには変わりないのに。
凍てついた冬空の下、旭は切ない痛みを誤魔化すように龍生の横顔から目を逸らした。
つながれたままの手が嬉しくて、そのくせ胸が苦しい。
その苦しさがどこからくるのか、このときの旭はまだ知らなかった。
*君と僕の願い事 終*
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