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放課後――
旭は花のバケツの水を取り替えていた。といっても、単に水を取り替えるだけではない。
一旦、花を取り出してバケツを洗い、枯れている花や状態の悪いものは取りのぞき、茎を数センチ切り落としてまたバケツにもどす。
水だけでも重いのに、花が入っていると尚さら重い。旭はバケツを両手で持ち、ややふらつきながら店の外へと運んだ。かわりに他のバケツを手に店内へ入り、先ほどと同じ作業を繰り返す。
実春はホテルのパーティー会場でフラワーアレンジメントの仕事があるとかで、だいぶ前に出かけたきりまだ帰ってきていない。
その間、旭は頼まれた仕事をできるかぎり早いペースでこなしていた。
最後のひとつを外へ運び終わると、思わず溜息が出た。
新しい水に取り替えられた花たちは、気のせいか先ほどまでよりも生き生きとして見える。旭はそれを満足げにながめてから店内へもどろうとした。そのときだった。
斜め向かいの店の前にトナカイが現れた。
正確にはトナカイの着ぐるみを着た人間が、だが。
立派な角と丸く出っ張った鼻面、その先についている熟れたトマトみたいに赤い鼻、その下は淡い茶色のふかふかしたつなぎになっていて、手足の先だけが蹄をイメージしてか濃い茶色だ。
トナカイは片手に風船の束を持ち、子供たちへ配っていた。
そっか、もうじきクリスマスなんだ……。
クリスマスといっても母親がいなくなってからは特に何もしていない。父親は行事には興味が薄く、クリスマスだからといって家へ早く帰ってくるようなこともなかった。
トナカイの赤い鼻が商店街の光を反射して艶やかに光っている。
幼かったころ、クリスマスになるたびに聴いた歌を思い出す。赤い鼻に劣等感を抱いていたトナカイと、そのトナカイを元気づけるサンタクロースの歌。
無意識に口ずさんでいたらしい。通りがかった女の人にくすりと笑われて、旭は慌てて口を閉じた。
白い息を吐き、空を見上げる。
今年はひとりきりのクリスマスだ。
「平気……だよね……」
クリスマスでも誕生日でも一日は一日だ。
いつもとなにも変わりはしない。実家にいたころだって、決まって父親とふたりで過ごしたわけでもないのだ。
旭は淋しがる心を抑えつけて「平気だ」と自分自身へ言い聞かせた。
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