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三、好い人
そうしてヤエが種を蒔き終えた時には、既に日は傾きかけていた。赤く滲んだ光は、山の端に反射してより一層の輝きを増していた。
「おおい。今日の仕事は終わりじゃ。」
白髪と白く生やした髭が特徴的な老人は、畑にせっせと向かい続けている村人に向けて力いっぱい叫んだ。すると次々に「ああ、やっと終わった。」「ふう。」などの声が聞こえてくる。そして人々は家に帰るのだった。ヤエも額や頬に流れる汗をごしごしと腕で拭い、その場を後にしようとしたその時、
「ヤエ。今日はおとっちゃんにごつかれなかったんか。」
一人の少女がヤエの元へ駆け寄った。肩で切り揃えられた髪が少し揺れた。歳はヤエと同じくらいだろうか、背丈は彼女とほとんど変わらない。
「オトじゃないか。お前はどうだったんだ。」
「どうだったも何も、おれはヤエと違ってぶたれる事はしねえんだ。」
悪戯っ子のような表情でにひひと笑う彼女を見て、ヤエははあと息をついた。ヤエがその真面目さ故に、酒飲みの父に当たられやすいのをよく知っているのだ。
「お前がずる賢いだけじゃないか。嫁にもらわれるんなら、もっと…。」
そう言い終わらない内にオトはヤエの腕のぎゅっとしがみつき、わざとらしい上目遣いで彼女を見つめた。
「おれはきっといつか、うんと金を持ってる男に嫁ぐんさ。こんなきれいな顔に傷がついちゃあ、台無しじゃねえか。」
瞳こそきらきらと輝いているものの、その奥には金に対する欲望が渦巻いていた。
「お前の腹の中が黒いうちは、できっこないさ。」
この少女は村一番の美人だと大人達は言うが、こんな辺鄙な村にぜひぜひと貰いに来るもの好きもそういないだろう。ヤエはそう思いながら、目の前の少女を哀れと諦めが混じった目で見つめ返した。
「ヤエに好い人はおらんのか。」
急に真剣な顔つきになったオトは、ヤエに尋ねる。
「好い人か。」
ヤエが真っ先に思い浮かべたのは、やはりあの少年だった。妹を助けてくれた事、隣村の出身でありながら自身を敵視しなかったこと、彼には恩がある。しかし顔すらよく見えなかったというのに、こんなにも少年の事を考えているのは何故なのだろうか。
「ほお、いるんかあ。」
「違えよ。」
思わずふいとオトから視線をそらしてしまう。彼女なら何を言い出すか知れたもんじゃない。
「ヤエは、そいつの赤んぼを生みたいのか。」
「…俺がおっ母になっても、満足に食べさせられねえよ。役人が俺たちのコメも何もかも、全部とりにくるじゃないか。その内赤んぼまで死なせてしまう。」
「そんな心配はねえよ、ヤエ。」
オトが一層強く腕にしがみつきにっと笑う。
「俺が金持ちんとこへ嫁いくからさ、皆に飯食わせてやるよ。ヤエの赤んぼだって死なねえ。村一番のべっぴんが言うんじゃ、間違いねえ。」
オトが言うんなら本当にできるかもしれない、彼女の言葉は、ヤエをそう思わせるのに十分だった。いつだって自信満々なオトは、ヤエの心を元気づけてくれるのだ。
「じゃあ、まず腹黒をなおせよ。」
ヤエはまた諦めた顔をしていたが、そこには先ほどとは違い、微笑ましさがあった。まるで自分の妹を見守るかのように。
「何だとっ。」
そう言いながらも、けたけたと笑い声を上げながらはしゃぐ彼女の開いた口からは、白い歯が見えた。夜は、すぐそこにまできていた。
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