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四、凶作
畑の種まきが終われば次は田植である。女子供は一斉に駆り出され、裾を上げ、ほっかむりをかぶり、腰を屈んで、日に日に増す日差しの下で苗を植えるのだ。
ヨイサ 苗を植えましょか
赤子が泣きだす前に
ヨイサ ああ 神さんや
きれいな 実を つけてくだしゃんせ
稲が歩いて 逃げちまう前に
オトの高らかな、どこまでも響くような声に続いて村人達が歌う。少し冷えた空気が彼らの間を通り抜ける。彼女は顔だけでなく声も村一等だと言われているが、それはあながち言い過ぎでもないなと、歌いながらヤエは思うのだった。
「ヤエー。声が小さいぞっ。」
オトがはやすように大声で叫ぶ。
「姉ちゃん、オト姉ちゃんに怒られてやんの。」
ヤエの弟、リュウがくくっと笑い声を押し殺す。しかしその声をヤエは聞き逃さなかった。
「うるせえ。おっ父にどつかれても知らんぞ。」
ヤエが弟の頭に拳骨し、いてえとこれまた叫び声が聞こえる。やがてリュウも大人しく田植にいそしみ励むのだった。
「今年はどうじゃ、ヤマト。」
白い髭の老人が隣にいる男に尋ねる。
「長老様、悲しいことに、占いでは凶作と出ております。」
「そうか…。里長たちをどうするかじゃな…。」
長老と呼ばれた老人はううむと溜息を吐いた。
「ああ、ネネや子供たちに食べさせるコメが…。」
ヤマトが手で顔を覆い、うっうっと嗚咽を漏らした。
「泣くな、ヤマト。分かっていたはずじゃろう。これは村の者たちで乗り越えねばならんのだ。しっかりせえ。」
長老はヤマトの背を叩き、励ますが彼自身苦しい表情は消えていないようだった。
(そうか、今年は…。)
遠くからその会話を聞いていたヤエは、この冬飯にありつけない事を覚悟した。しかしヤエにとって一番気がかりなのは、自身の飢えではなく家族や友人オトの苦しみ、嘆く姿を見る事であった。飢える事、それはものを口にするか死が訪れるまで決して終わらない地獄そのものであり、人々が最も恐れる事であった。さらに冬が訪れれば秋に採ったコメや作物で季節を超えなくてはならない。それが凶作の年であればどれほどひもじく、情けない事か想像に難くない。それを想うだけで、ヤエはまた胸がぎゅっと締め付けられる思いがした。
「おおい、一旦休みじゃ。」
日が高くなるころ、長老の声が村中に響いた。何も知らない村人は、田から上がるとその場に座り込んだ。腰を屈め続ける田植は、人々の身体を傷めつけるのである。
「顔を洗ってくる。」
先程の屈託しきった気持ちを晴らすため、ヤエは村のはずれにある沢へ向かった。少し歩けばそこは草やら葉に覆われており、がさがさとかき分けると誰も知らない自分一人だけの場所がある、はずだった。
池につながっているさらさらと流れる清い水があり、周りはいくつもの木で囲まれている。ここまではいつもと変わらないのだが、そこには妙な衣を身に纏った少女が岩に腰を掛けていた。まず目に入ったのは鮮やかな緋色の朝服。そよそよと吹く風に裾が揺れており、少女がこの世のものではないような雰囲気ですら醸し出していた。次に領巾。本来透けないはずの布が向こう側の景色をうっすらと映しているのにヤエは驚いた。
そして少女の髪。この村ではまず見る事はないであろう不思議な形をしており、頭部の左右に髪を二つにまとめていた。
村から一歩も出た事のないヤエでも、この不思議な少女が只ならぬ身分の者だろうと容易に想像できた。彼女にとって「身分の高い者」は里長しか知らなかったが、ただ威張っているだけの彼とはまるで違う。決して貪らず、穏やかな目で、ただただ目の前の自然をその身で感じる姿は、明日食う物にすら困る自分とは別世界に住んでいるのだと思わされた。
ピピピッと小さな鳥が飛び、少女が手を差し伸べるとその指先に止まった。しばらく鳥の鳴き声に合わせて口笛を吹くと、やがて鳥はどこかへ飛び去った。それを彼女はまた優しい目で見つめていた。ふとヤエは、いつしか少女の視線が自分に注がれている事に気が付いた。
「残念やったねえ、飛んで行ってしもうたわ。」
少女はくすくすと手に口をあてて笑い、ヤエに手招きをした。つられて彼女は沢の方へ近づいていった。少女の正体も分からない、しかも高貴な身分の者であるというのに不思議な事である。少女は自身の近くにあった枝を指さして、
「見てみい。ここは葉が光に当たって綺麗やろ。この時にしか見られんよ。」
とヤエに語り掛けた。
「考えた事ねえや。おれ達皆毎日食いもん作ってんだから。」
少女は少し驚いたような顔をすると、次に懐から折りたたんだ紙を取り出し、開いてヤエに見せた。
「この歌にも書いてあるんや。どうやろう。」
「…おれは字が読めねえんだ。」
二人の間に沈黙が流れる。互いの文化をよく知らなかったが故の災難である。
「そうかあ。それは悪い事してもうたなあ。ならせめて、名前だけでもええか。」
「おれはヤエっていうんだ。」
「ヤエ。ヤエ。きっとこれから徳を積んでいくんやろうな。いい名前付けはったわ。」
「おれは何て呼べばいいんだ。」
「初子(はつこ)。周りの者は姫だの何だのそう呼ぶ。」
初子と名乗った少女ははあとため息をついた。
「すまん、おれは田植に戻らんと、おっ父にどやされるんだ。」
「それなら仕様がない。気を付けてな。」
初子がひらひらと手を振って見送る。ヤエも少し微笑みながら、
「ああ、初子も。」
と答えた。
戻ったヤエは、何とか父にどやされずに済み、残りの田植を済ませた。そして日は何時しか沈み、夜の帳が下りた。ヤエは自身の家で、家族と共にコメに汁物、そして煮た山菜を頬張っていた。
「もう田植の季節だというのに、随分寒いねえ。」
母がぼそりと呟く。確かに、苗を植えていた時はいつもより風が少し冷たかったような気がする。ヤエは思い出した。
「そんなこたあ変でもないだろ。それより酒だ、酒酒。」
父は母に目もくれず、器に酒を注ぐとがぶがぶと一気に飲み干した。そんな会話を聞きながら、ヤエは長老とヤマトの会話を思い出した。
(やっぱり凶作というのは、本当なのだろうか。もしそれなら、おれはどうすれば良いのだろう…。)
そう思い詰める彼女の隣では、リュウとササが食事に夢中になっていた。勿論彼らは何も知らない。
(初子か…。なぜあんなところにいたのかは知らないが、飯にはきっと困るこたあないんだろうな。)
昼間の彼女との会話を思い出したヤエは、初めて自分のありつける食事がひもじいと思った。出口からは、ひんやりとした空気が彼女の頬を掠めた、そんな気がした。
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