1/1
9人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ

私は芹沢綾(せりざわあや)。専業主婦をしている。夫は4歳歳の離れた人で、帆純(ほずみ)という。今は医薬系の会社の研究員をしている。 帆純とは就活の企業説明会で知り合った。彼と結婚出来てよかったと、心から思う。 私達はまだ新婚だから、彼は毎朝、出かける前にキスをしてくれる。唇が触れ合う程度の軽いキスで、これから内と外に分かれて働く私達にふさわしい朝のキスだ。 キスをする時に、唇を重ねた状態でほんの少しずらす癖が、彼にはある。こうすると普通にキスするよりも互いの唇が擦れるから、キスを終えた後も、相手の唇の余韻が強く残る。心に鍵を掛けられているみたいなキス。大事にされていると、肯定的に考えればいいだけなのに。もう何十回もしたはずなのに。私は彼のこの癖に、未だに慣れない。 今、キスをしてる。そう自覚した瞬間に、ぽっと、心に灯が灯る。私はこの灯が恥ずかしい。自分の隠していた一面がこの灯で照らされるからだと、自分では思っている。 照れ隠しのためなのか、いつからか照らされた心が一人でにうねり出すようになった。私は、自分の支配下にあったはずのものに、本当の私の心の動きを教えられるようになってしまっている。目の前でかつての自分だったものが一人でに動き出すのを見るのは裏切られたようで嫌で、何か分からないうちにそれに呑まれてしまうのは困る、と思った。だからそれがうねり出した時は、他人になったつもりで、なぜこのうねりが起きるかを分析して対等を保つことにした。恐らくは心の根底でこういうことに引け目を感じている私の、臆病な知覚が問題なのだろう。臆病だが彼が好きで、彼に構ってもらいたいというジレンマで私の心の表面は常にささくれ立っている。そのささくれのせいで、彼に何かされたら必要以上に過敏になってしまい、頭の中で彼のイメージが勝手に増幅されていくのだ。 それにしても。頭の中で彼のイメージのコピーが、彼が何もしていないのに無限に作られていく。それを止めることも出来ないなんて、恥ずかしくて溜らない。 だから毎朝キスをすると分かっているのに、毎回身構えてしまう。このキス一つ取っても私達の関係性が分かる。まるで見えない鎖に繋がれているみたい。じれったい。でも嫌じゃなくて、もっと欲しい。そう思うのは、私の心の別の部分がまた新しい動きで、うねり出しているからだ。 だからせめてこうなった時は、出来るだけやり慣れているように振舞おうと、私は半ばムキになって、背伸びをして、頑張ってしまうのだ。私は自分がなぜこうなってしまうのか、理解出来るし、人に説明出来る。でもそこまで出来たとしても、止めようがない。むしろ理解出来たからこそ、それに安心して呑まれたいと思うのだ。 彼は朝のキスをした後は顔が変わる。子どもみたいに無邪気に笑わなくなるのだ。営業スマイルが似合う仕事の顔になると言うのか。きりりと締まった顔になる。その顔で、たまにかわいい、と言って微笑んでくれる時もある。 その後でどちらの時も必ず、行ってきます、と言ってマンションの玄関を出ていく。 微笑んでくれない時の「行ってきます」は辛い。キスの余韻が残った唇が熱を持って、じんわりと痛む気がする。まるでおあずけを食らった動物のような気分になる。 そんな日は、たまに唇をなぞりながら、夢うつつの気分のまま、朝の余韻を引きずって、手だけを機械的に動かして家事をこなしていく。彼の残像ととも日が流れて、暮れていく。 でも、こんな一日だったとしても私は不幸せではない。だって結婚をした後も、私は彼に恋をし続けていられるということだから。 これは私達がまだ新婚だから出来ること? 違う。恋はろうそくの炎のようなものだと思っている。灯る時は自然に灯るけど、ずっと灯しておくためには、その炎を愛しんで守らなければならない。そうしなければ周りの雨風に晒されて自然と消えてしまう。その意味で、付き合っている二人の共同作業は結婚前からもう始まっていると言ってもいいんじゃないだろうか。そんなことを思う。これは何かと口論が多い私の両親と、学生時代に周りにいた、とても狭い範囲で付き合ったり、離れたりを繰り返しているカップルを見て考えたこと。私は人並みの恋愛経験しかないけれど、皆、自分だけが楽をしようという思いが強すぎる。自分だけが楽して、助かりたいっていう思いが心の底に常にあるように思うのだ。そういうのを見ていると、恋をした相手ですら信用できないなんて、寂しくないの、って思う。 灯った恋の炎がコントロール出来ないというのは、多分嘘。コントロール出来ないんじゃなくて、もうコントロールをする手間が惜しいと考えるほど、その炎に価値を感じていないんじゃないかな。 それでも出来ない、自然と他の人に惹かれてしまう、というのなら、それはもう、動物的な情愛を抑えられない、刹那的な生き方をする人の言い訳だと、私は思う。そういう人の心は、私にはもう、理解出来ない。 彼は帰ってくる時は、いつもただいま、と言って笑う。その笑顔を見ると、今日もつつがなく終わったんだな、ということが分かって、私もほっとする。彼の仕事は製薬会社のバイオ技術開発だ。バリバリの理系職だから、文系の事務職志望だった私には、彼の話の深い所は理解出来ない。だから彼が仕事の話をする時は、もっぱら聞き役に回っている。彼もそれを理解しているようで、私には仕事については雑談程度の話しかしない。 大学院でバイオ学を学んで、今は研究所で再生医療の研究をしているということ。大学の研究者と違って、企業の研究員は、研究室に閉じこもっているだけではなく、一日中試験官と睨めっこしている一日があるかと思えば、専門外のお偉方の前で一日中プレゼンをしたり、接待の席に出たりすること。意外とアクティブな一面があるんだと、聞いた時は驚いた。大手と言われる製薬会社のグループ企業だけれど、最近トップが変わって、遺伝子検査等の流行りの新規事業を始めることになったという。そのせいで彼の研究部門も本来の研究の合間にグループ経由で成分検査依頼が舞い込むようになって忙しくなり始めているそうだ。彼は週の半分は私服で、半分はスーツで出勤しているが、それでも当日に予定が変わることがあるようで、今は会社のロッカーにスーツを常備している。 企業だからいろんな人を説得しなきゃいけなかったり、ある瞬間に頭を切り替えなくちゃいけないことがあって大変だけど、毎日飽きないから、いいよ、とあの時の彼は笑った。半分はそうかもしれない。でも、もう半分は強がりだと思った。 朝、私服で行って、スーツで帰って来た初めての日、玄関で目を丸くした私の前で、彼は理由を説明すると、バツの悪そうな顔で長身の体を竦めて、笑った。困惑と自嘲と照れが巧みに混ざったような笑みだった。 時折唇を舐めながら話す彼の仕草が、いたずらがばれた子どものように見えてかわいかったから、何も答えずにただ見返してしまった。初めて彼のほずみ、という名前を聞いた時のことを思い出していた。女の子のような名前だと思いながら、教えてくれた名前をオウムのように繰り返した後で、彼の凛とした、あの中性的な顔を見つめた。彼は私の反応を心なしかうれしそうに確かめた後で、目を伏せて、こういう字を書くんだ、と言って新しいルーズリーフにシャーペンで名前を書いて渡してくれた。 まだ結婚したばかりだけれど、これから接待で午前様になったり、ゴルフで早出をすることもあるだろう。そんな時にもこの人はこんな風に笑うのだろうか。そう思うと、彼が堪らなく愛しくなった。玄関で立ち尽くしていた彼の手を握ると温かで、何も言わずにそのまま抱きしめてしまった。 「綾さ、時々、お姉ちゃんみたいになることがあるね」 「お姉ちゃん?」 「そう、年下なのに、年上っぽく振舞う所がある」 「そうかな?」 「そうだよ」 「じゃあ、……帆純が年上に戻ってよ」 「え?……いざ戻れって言われると、なあ」 夕食を食べた後で紅茶を飲みながら、そんな他愛もない話をしたこともあった。どうせベッドに入れば元通りにリセットされるのだから、本当に他愛もない話。 こんな風に時々彼の上に立って、彼に降ろされるのを待っている。私は彼と話す時、特に図星の時は、照れ隠しで生意気な口をきいてしまうことが多い。彼は私を怒らない。根が優しいからなのか。明るい所では血の繋がった妹か、猫みたいに私を扱いたいからなのか。 いずれにしても彼を軽く挑発しながら、彼を斜め上の場所で眺めるのは楽しかった。でもどんな所に行っても、彼に呼ばれればすぐに戻る。そして戻った後は、彼の傍からは離れない。そう決めていた。だって私は、彼を好きなんだもの。 散々言葉で挑発しながらも、私の心はもう彼の前にはない。言葉遊びをしている今よりももう少し先を飛んでいる。自分が口にした言葉を味合うように反芻したり、次に言う言葉を飴のように転がしたりしながら、少し先の未来を考えている。ベッドの上で愛し合う時に、彼に優しい言葉を掛けられながら、男の視線で脱がされることを今から想像している。私の女の身体が、彼のオスの本能で屈服させられるのを今から期待している。受容している。心の底から。 私達は特別なんかじゃないと思っていた。こういうの、たぶん形は違えど、どこの恋人もやっていること。こういう言葉の駆け引きのパワーゲームは、恋人同士でやるのが、一番楽しい。彼も全部分かっているはずだ。だって時々、楽しくって堪らないって顔をする。私達がプレイしているこの緩やかなパワーゲームは、遊び方を間違えれば劇薬になるもので、そのスリルが面白いということ。そして上手く使いさえすれば、死ぬまでずっと楽しめるものだということ。 私は特に帆純の妹を演じるのが好きだ。昼間は時々生意気になる妹になって、彼に守られながら彼を支えるのが好き。たまにいたずらして夜の時にも、お兄ちゃんを心から慕っている本当の妹がするようなそぶりをして、彼の心を背徳感でいっぱいにして恥ずかしがらせて楽しむのも大好き。そうして彼と一緒にずっと暮らしていきたい。身体も心もそう言っている。私は嘘がつけない。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!